【感想】藤幹子さんとふたつのカバン―BL俳句って、なんだろう―
- 2016/05/04
- 00:41
銀河行くふたつの旅行鞄かな 藤幹子
【BL俳句からわたしが学ぶこと】
『BL俳句誌 庫内灯』からの一句です。
『庫内灯 BL俳句誌』の巻頭に置かれている石原ユキオさんの「BL俳句の醸し方」で石原さんがBL俳句を楽しむコツとしてこんなふうに書かれているんですね。
「情景を想像し、ストーリーを妄想せよ!」
で、わたし、BL(ボーイズ・ラブ)ってこの「妄想」が大事なのかなあって思ったんです。ただそれは「妄想」だけではない。石原さんがその前に「情景を想像し」って書いてますよね。それってどういうことかというとつまり、〈妄想を構造化すること〉がBLなんではないかとおもったんです。
たとえば、ホームズとワトソンがもし愛し合っていた二人だったらというのもBLですよね。このとき、本編では愛し合っていないので〈妄想〉するわけです。ただ〈妄想〉だけではだめで、たとえばホームズが「空き家の怪事件」で変装して生還したホームズにワトソンはきゅんときてしまったのではないかとか「情景」を設定し、妄想を構造化しなければならない。それって〈俳句〉にちょっと似ているなとも思ったんです。
たとえば季語をキャラクターだとすると、その季語を〈妄想〉を介して意味的飛躍させつつも、設定を与え、配置によって構造化していく。あくまで私なりの雑駁な整理なんだけれども、構造としては似ているのかなって。
で、この『庫内灯』に「鞄はふたつ」っていう藤幹子さんの連作があるんだけれど、この「鞄はふたつ」っていうのがBLの基本視座なんじゃないかと思ったんです。「人間がふたり」じゃないんですよね。「鞄はふたつ」なんですよ。だからここにはいろんな関係がある。たとえばひとりの人間が別れて部屋を出ていくのにふたつの鞄をもってでるのかもしれないし、それぞれが別れて別々の暮らしをするのにひとつずつ持っているのかもしれない。もしくはこれから一緒に同棲するにあたって、これから同棲をはじめるにあたって「鞄はふたつ」で、これから「鞄をひとつ」にしていくのかもしれない。そういういろんな〈関係妄想〉ができますよね。だからこの〈関係妄想〉の基本視座が「鞄はふたつ」なんじゃないか。しかも「鞄」って出会いと別離の換喩になっていますよね。
で、BLってこの関係構造(情景)に、どのような妄想(恋愛的転回)を加えるかが大事だと思うんですね。恋愛っていろんなバリエーションが考えられるし、たとえば私が読んだBLマンガならば、セックスありの恋愛もあるし、セックスなしの恋愛もあるし、セックスをふたりで学習しつつセックスが入ってくる恋愛もある。そういう関係構造にバリエーションが含まれていくのがBLなのかなって思ったんです。
ちなみにこの藤さんの鞄の句は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の句としても読めるんですよね。だから、俳句がBL化することの大事さって、どんどんその俳句じたいがさまざまな情景と関係をもちながら、複層化していくおもしろさもあるのかなあって思ったんですよ。とくに短詩は情報量が少ないですから、石原さんがおっしゃっていたような〈妄想〉の駆動装置としてはすごく適切なわけですよね。というよりもわたしたち読み手はずっと昔から鑑賞として関係妄想をしてきたようなところがあるのではないか、BL的であったのではないかとすら、おもうのです。
「BL俳句に決まった読み方はありません」と石原さんが書くときに、わたしたちはこのBL俳句の視座から「BL俳句」を通して〈読み方〉をもういちど学ぶこともできるのではないかとおもうんですよ。わたしたちの〈読み方〉がそんなに〈正統〉ではないことも振り返りつつ。
夏めくや君の名を呼び捨てにせり 龍翔
ヴィスコンティ『家族の肖像』(1974)。ヴィスコンティってずっと数々の映画で〈関係妄想〉を繰り広げていたんじゃないかと思うんですよね。ヴィスコンティ映画はハイソな貴族階級が主人公になることが多いんですが、ポイントは〈関係妄想〉によってこの階級から逸脱していく、〈同性愛感情〉におびやかされて、階級なんて関係ないところに踏み込んでいってしまうところだと思うんですよ。つまり、関係妄想に関係していくときに、ひとはそれまでいたポジションを捨てて、もうひとつの視座を獲得していく。でもそれってひとが変化していくためには実は必要なことだし、そこにこそドラマがあるんじゃないかとも思うんですよ。たぶん恋愛で片思いでも両思いでも異性愛でも同性愛でもいきいきとしているときって〈関係妄想〉に〈関係〉しようとしているときですよね。
【BL俳句からわたしが学ぶこと】
『BL俳句誌 庫内灯』からの一句です。
『庫内灯 BL俳句誌』の巻頭に置かれている石原ユキオさんの「BL俳句の醸し方」で石原さんがBL俳句を楽しむコツとしてこんなふうに書かれているんですね。
「情景を想像し、ストーリーを妄想せよ!」
で、わたし、BL(ボーイズ・ラブ)ってこの「妄想」が大事なのかなあって思ったんです。ただそれは「妄想」だけではない。石原さんがその前に「情景を想像し」って書いてますよね。それってどういうことかというとつまり、〈妄想を構造化すること〉がBLなんではないかとおもったんです。
たとえば、ホームズとワトソンがもし愛し合っていた二人だったらというのもBLですよね。このとき、本編では愛し合っていないので〈妄想〉するわけです。ただ〈妄想〉だけではだめで、たとえばホームズが「空き家の怪事件」で変装して生還したホームズにワトソンはきゅんときてしまったのではないかとか「情景」を設定し、妄想を構造化しなければならない。それって〈俳句〉にちょっと似ているなとも思ったんです。
たとえば季語をキャラクターだとすると、その季語を〈妄想〉を介して意味的飛躍させつつも、設定を与え、配置によって構造化していく。あくまで私なりの雑駁な整理なんだけれども、構造としては似ているのかなって。
で、この『庫内灯』に「鞄はふたつ」っていう藤幹子さんの連作があるんだけれど、この「鞄はふたつ」っていうのがBLの基本視座なんじゃないかと思ったんです。「人間がふたり」じゃないんですよね。「鞄はふたつ」なんですよ。だからここにはいろんな関係がある。たとえばひとりの人間が別れて部屋を出ていくのにふたつの鞄をもってでるのかもしれないし、それぞれが別れて別々の暮らしをするのにひとつずつ持っているのかもしれない。もしくはこれから一緒に同棲するにあたって、これから同棲をはじめるにあたって「鞄はふたつ」で、これから「鞄をひとつ」にしていくのかもしれない。そういういろんな〈関係妄想〉ができますよね。だからこの〈関係妄想〉の基本視座が「鞄はふたつ」なんじゃないか。しかも「鞄」って出会いと別離の換喩になっていますよね。
で、BLってこの関係構造(情景)に、どのような妄想(恋愛的転回)を加えるかが大事だと思うんですね。恋愛っていろんなバリエーションが考えられるし、たとえば私が読んだBLマンガならば、セックスありの恋愛もあるし、セックスなしの恋愛もあるし、セックスをふたりで学習しつつセックスが入ってくる恋愛もある。そういう関係構造にバリエーションが含まれていくのがBLなのかなって思ったんです。
ちなみにこの藤さんの鞄の句は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の句としても読めるんですよね。だから、俳句がBL化することの大事さって、どんどんその俳句じたいがさまざまな情景と関係をもちながら、複層化していくおもしろさもあるのかなあって思ったんですよ。とくに短詩は情報量が少ないですから、石原さんがおっしゃっていたような〈妄想〉の駆動装置としてはすごく適切なわけですよね。というよりもわたしたち読み手はずっと昔から鑑賞として関係妄想をしてきたようなところがあるのではないか、BL的であったのではないかとすら、おもうのです。
「BL俳句に決まった読み方はありません」と石原さんが書くときに、わたしたちはこのBL俳句の視座から「BL俳句」を通して〈読み方〉をもういちど学ぶこともできるのではないかとおもうんですよ。わたしたちの〈読み方〉がそんなに〈正統〉ではないことも振り返りつつ。
夏めくや君の名を呼び捨てにせり 龍翔
ヴィスコンティ『家族の肖像』(1974)。ヴィスコンティってずっと数々の映画で〈関係妄想〉を繰り広げていたんじゃないかと思うんですよね。ヴィスコンティ映画はハイソな貴族階級が主人公になることが多いんですが、ポイントは〈関係妄想〉によってこの階級から逸脱していく、〈同性愛感情〉におびやかされて、階級なんて関係ないところに踏み込んでいってしまうところだと思うんですよ。つまり、関係妄想に関係していくときに、ひとはそれまでいたポジションを捨てて、もうひとつの視座を獲得していく。でもそれってひとが変化していくためには実は必要なことだし、そこにこそドラマがあるんじゃないかとも思うんですよ。たぶん恋愛で片思いでも両思いでも異性愛でも同性愛でもいきいきとしているときって〈関係妄想〉に〈関係〉しようとしているときですよね。
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