【感想】吉野家に頬杖をつき桜桃忌 松本てふこ
- 2016/05/05
- 23:54
吉野家に頬杖をつき桜桃忌 松本てふこ
【頬杖と時間】
『庫内灯』からの一句です。
「吉野家」って〈短い時間〉の場所だと思うんですね。
滞在するような、留まる場所ではなくて、できるだけすぐ食べて・すぐに出る場所。座ればすぐでてきてすぐ食べてすぐ帰っちゃう場所だとおもうんですよ。
もちろん、ときどき吉野家や松屋で文庫本を熱心に読んでいる少女をみたりすることだってあるかもしれない。でもだれかが思うかもしれない。ここはスタバじゃないんだ、と。
そういう実はジャンクフードをめぐる場所の問題って実は時間をめぐる問題なのかなとも思うんですよ。場所に付与する時間のありかたが変わってくる。スタバは長いことそこで作業する場所、牛丼屋さんはできるだけそこを短い時間で切り上げる場所。
で、このてふこさんの句がおもしろいのは「頬杖をつき」ってこれから長い時間ここにいることの〈態度〉を〈表明〉していることなんじゃないかとおもうんです。
だから〈ショートスパン〉の「吉野家」という場所が太宰治にとっては特権的なアクションだった「頬杖」を通して〈ロングスパン〉の場所に組み換えられているところがおもしろいなって思うんですよね。
これは時間を組み換えている句なんじゃないかと。しかも、です。「頬杖」ってことは、デューラーの有名な絵「憂鬱」が示すとおり、〈憂鬱〉の表徴なんですね。〈憂鬱〉がその場所をめぐる時間の規則を組み換えている。たとえば憂鬱だとわたしもそうですが、どこでだってへたってしまうわけです。腰がわなわなふるえて、足にちからが入らなくなり、奇跡的に電信柱があればそこに抱きつき、ない場合はそのままゆっくりと前方につっぷしてゆく。そして、わあわあと泣く。いや、泣かない。
そうすると、その場所をめぐる時間の規則が変化してゆくんですよね。組み換えられてゆく。それっておもしろいなって思うんです。なんだろう、桜桃忌をめぐる問題って太宰と山崎富栄の死体がなかなか玉川上水からあがらなかったように〈時間〉の問題なんじゃないかとおもうことがあるんですよ。時間時間時間。
玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって 望月裕二郎
地点・三浦基『三人姉妹』(2015)。地点のチェーホフ劇ってすごくてですね、ともかく全員が暴力的なアクションをとりながら叫ぶようにセリフをいうんですね。すべてのことばを暴力のなかにたたきこみ、その暴力のなかからことばを浮かび上がらせていく。それは性暴力もふくめてです。そこでなにが変わるかというと、〈静かな演劇〉といわれたチェーホフをめぐる固有の時間が変わってくる。〈うるさい演劇〉にチェーホフが組み変わることで、チェーホフの言葉の意味作用も変わってくるわけです。そうすると、〈意味〉っていうのは時間の組み換えなのではないかと思うわけです。意味を変えることは、時間を組成しなおすこと。「いつまでながれているんだよ」と時間にたいしていらだつこと。それが意味と向き合うことなんじゃないか。
【頬杖と時間】
『庫内灯』からの一句です。
「吉野家」って〈短い時間〉の場所だと思うんですね。
滞在するような、留まる場所ではなくて、できるだけすぐ食べて・すぐに出る場所。座ればすぐでてきてすぐ食べてすぐ帰っちゃう場所だとおもうんですよ。
もちろん、ときどき吉野家や松屋で文庫本を熱心に読んでいる少女をみたりすることだってあるかもしれない。でもだれかが思うかもしれない。ここはスタバじゃないんだ、と。
そういう実はジャンクフードをめぐる場所の問題って実は時間をめぐる問題なのかなとも思うんですよ。場所に付与する時間のありかたが変わってくる。スタバは長いことそこで作業する場所、牛丼屋さんはできるだけそこを短い時間で切り上げる場所。
で、このてふこさんの句がおもしろいのは「頬杖をつき」ってこれから長い時間ここにいることの〈態度〉を〈表明〉していることなんじゃないかとおもうんです。
だから〈ショートスパン〉の「吉野家」という場所が太宰治にとっては特権的なアクションだった「頬杖」を通して〈ロングスパン〉の場所に組み換えられているところがおもしろいなって思うんですよね。
これは時間を組み換えている句なんじゃないかと。しかも、です。「頬杖」ってことは、デューラーの有名な絵「憂鬱」が示すとおり、〈憂鬱〉の表徴なんですね。〈憂鬱〉がその場所をめぐる時間の規則を組み換えている。たとえば憂鬱だとわたしもそうですが、どこでだってへたってしまうわけです。腰がわなわなふるえて、足にちからが入らなくなり、奇跡的に電信柱があればそこに抱きつき、ない場合はそのままゆっくりと前方につっぷしてゆく。そして、わあわあと泣く。いや、泣かない。
そうすると、その場所をめぐる時間の規則が変化してゆくんですよね。組み換えられてゆく。それっておもしろいなって思うんです。なんだろう、桜桃忌をめぐる問題って太宰と山崎富栄の死体がなかなか玉川上水からあがらなかったように〈時間〉の問題なんじゃないかとおもうことがあるんですよ。時間時間時間。
玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって 望月裕二郎
地点・三浦基『三人姉妹』(2015)。地点のチェーホフ劇ってすごくてですね、ともかく全員が暴力的なアクションをとりながら叫ぶようにセリフをいうんですね。すべてのことばを暴力のなかにたたきこみ、その暴力のなかからことばを浮かび上がらせていく。それは性暴力もふくめてです。そこでなにが変わるかというと、〈静かな演劇〉といわれたチェーホフをめぐる固有の時間が変わってくる。〈うるさい演劇〉にチェーホフが組み変わることで、チェーホフの言葉の意味作用も変わってくるわけです。そうすると、〈意味〉っていうのは時間の組み換えなのではないかと思うわけです。意味を変えることは、時間を組成しなおすこと。「いつまでながれているんだよ」と時間にたいしていらだつこと。それが意味と向き合うことなんじゃないか。
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