【ふしぎな川柳 第九十九夜】すべての夜の終わりに-小池正博-
- 2016/05/07
- 01:30
都合よく転校生は蟻まみれ 小池正博
【ふしぎとは、恣意性である】
川柳カード大会で小池さんと対談させていただいたときに小池さんが自選句として出されていた句なんですね。
で、そのあとで私は時評でこの小池さんの蟻の句に〈喩え〉の観点からふれていたんですが、またさいきんこの句について考えていたんです。こんどは言葉の観点じゃなくて、《じぶんじしん》の観点から。
《じぶん》を込みで、《恣意的に/都合よく》この句と向き合ってみたらどうだろうってちょっとおもったんですね。
で、ちょっと思ったのがこの小池さんの句って三段階の《恣意性》にまみれた句なんですよ。
《都合よく》という恣意性。《転校生》という恣意性。《蟻まみれ》という恣意性。ここにはどこにも中立性がないんですね。それは都合がよいものであり(内面の恣意性)、またよそものであり(主体の恣意性)、異常レベルのものである(状況の恣意性)。
すべてが、《偏って》いるんですよ。
でも、川柳って、ふしぎって、そういう《恣意性》をどう構造化するかなのではないか、っておもったんです。今までのふしぎなすべての夜を振り返ってみて。
だれも、だれひとりとして、中立な立場から川柳を語ろうとなんてしていなかった。それぞれの恣意的な偏った傾いた立場から、川柳を語っていた、ことばを、状況を、主体を語っていた。それを定型をとおして、わたしたちに伝えていた。それが現代川柳なんじゃないかとおもうんですよ。
だからわたしはこの小池さんの句って、現代川柳を語る主体の《基本的》な視座を指し示すものではないかと思うんですよ。《恣意性まみれ》でありながら、ただひとつ中立を指し示す《定型》によりかかった《語る存在》。それが現代川柳を語る人間の《ゼロ・ポイント》なんじゃないかとおもったんです。
そして、それこそが、ふしぎな人間がたつスタートポイントでもあるとおもうんですよ。
ひとは《恣意性》をかかえている。その《恣意性》をかくして、テンプレートでおしゃべりすることだってできる。でもその《恣意性》をあけすけにして、定型をとおして、《ふしぎ》な言語空間をつくりだすこともできる。そのとき、川柳らしい川柳であるなにかが生まれてくる。きっとそれは次のしゅんかん、川柳をはみだしていく。でもまたそれはいつか《越えられるもの》として川柳にかえってくる。
ずっと、状況にたいして、言語にたいして、《転校生》であること。
変節をしたのはきっと美の中佐 小池正博
市川崑『黒い十人の女』(1961)。市川崑らしく非常に構図がおもしろい映画なんですよ。またフェリーニの『81/2』にもすごく似ていて、フェリーニはこれを観てつくったんじゃないの、とちょっと思っています。で、構図のおもしろさってなにかっていうと徹底的な《恣意性》なんですよ。たとえば上のショットをいてもらうとわかるんですが、画面半分以上が意味がないんですよ。壁とかなんかで。そうするとものすごい《恣意性》なんですね。ところがこの映画に出てくる人間ってみんなすごく偏っていて、恣意性まみれなんですよ。けれど、登場人物だけでなくて、それをみつめる語り手=カメラもまた恣意性まみれになっている。これってそういう語り手が恣意性にたえず《浮気》していく映画だとおもうんですよ、王道の標準の視線から。
【ふしぎとは、恣意性である】
川柳カード大会で小池さんと対談させていただいたときに小池さんが自選句として出されていた句なんですね。
で、そのあとで私は時評でこの小池さんの蟻の句に〈喩え〉の観点からふれていたんですが、またさいきんこの句について考えていたんです。こんどは言葉の観点じゃなくて、《じぶんじしん》の観点から。
《じぶん》を込みで、《恣意的に/都合よく》この句と向き合ってみたらどうだろうってちょっとおもったんですね。
で、ちょっと思ったのがこの小池さんの句って三段階の《恣意性》にまみれた句なんですよ。
《都合よく》という恣意性。《転校生》という恣意性。《蟻まみれ》という恣意性。ここにはどこにも中立性がないんですね。それは都合がよいものであり(内面の恣意性)、またよそものであり(主体の恣意性)、異常レベルのものである(状況の恣意性)。
すべてが、《偏って》いるんですよ。
でも、川柳って、ふしぎって、そういう《恣意性》をどう構造化するかなのではないか、っておもったんです。今までのふしぎなすべての夜を振り返ってみて。
だれも、だれひとりとして、中立な立場から川柳を語ろうとなんてしていなかった。それぞれの恣意的な偏った傾いた立場から、川柳を語っていた、ことばを、状況を、主体を語っていた。それを定型をとおして、わたしたちに伝えていた。それが現代川柳なんじゃないかとおもうんですよ。
だからわたしはこの小池さんの句って、現代川柳を語る主体の《基本的》な視座を指し示すものではないかと思うんですよ。《恣意性まみれ》でありながら、ただひとつ中立を指し示す《定型》によりかかった《語る存在》。それが現代川柳を語る人間の《ゼロ・ポイント》なんじゃないかとおもったんです。
そして、それこそが、ふしぎな人間がたつスタートポイントでもあるとおもうんですよ。
ひとは《恣意性》をかかえている。その《恣意性》をかくして、テンプレートでおしゃべりすることだってできる。でもその《恣意性》をあけすけにして、定型をとおして、《ふしぎ》な言語空間をつくりだすこともできる。そのとき、川柳らしい川柳であるなにかが生まれてくる。きっとそれは次のしゅんかん、川柳をはみだしていく。でもまたそれはいつか《越えられるもの》として川柳にかえってくる。
ずっと、状況にたいして、言語にたいして、《転校生》であること。
変節をしたのはきっと美の中佐 小池正博
市川崑『黒い十人の女』(1961)。市川崑らしく非常に構図がおもしろい映画なんですよ。またフェリーニの『81/2』にもすごく似ていて、フェリーニはこれを観てつくったんじゃないの、とちょっと思っています。で、構図のおもしろさってなにかっていうと徹底的な《恣意性》なんですよ。たとえば上のショットをいてもらうとわかるんですが、画面半分以上が意味がないんですよ。壁とかなんかで。そうするとものすごい《恣意性》なんですね。ところがこの映画に出てくる人間ってみんなすごく偏っていて、恣意性まみれなんですよ。けれど、登場人物だけでなくて、それをみつめる語り手=カメラもまた恣意性まみれになっている。これってそういう語り手が恣意性にたえず《浮気》していく映画だとおもうんですよ、王道の標準の視線から。
- 関連記事
-
-
【ふしぎな川柳 第六十一夜】完璧な半券-八上桐子- 2016/01/07
-
【ふしぎな川柳 第六十二夜】音と罰-米山明日歌- 2016/01/07
-
【フシギな川柳 第九十一夜】わたくしと火星猫-木本朱夏- 2016/05/02
-
【ふしぎな川柳 第十五夜】むかし、ドラえもんありけり-野沢省悟- 2015/11/12
-
【ふしぎな川柳 第二十三夜】17音の饒舌-川合大祐- 2015/11/19
-
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:ふしぎな川柳-川柳百物語拾遺-