【希望の川柳 二日目】率直な希望-竹井紫乙-
- 2016/05/14
- 23:19
ここが好き生まれ育った地下である 竹井紫乙
【「好き」の使者】
紫乙さんの句集を読んでいると、けっこう「好き」っていう言葉がひんぱんに出てくることに気がつくんですね。しかもひとつひとつの「好き」の強度がつよいんです。つよいんですが、たくさん出てくるってことは、全方位的に「好き」が放射されながらもそのひとつひとつがきちんとおのおのの強度をもっているっていうことになります。
この「好き」っていう言葉なんだけれども、川柳だと組み込むことができるけれど、俳句だとなかなかむずかしいように思うんですよね。
乱暴な見方ではあるけれど、俳句が〈好きの回避〉なら、川柳は〈好きの生成〉であるんじゃないかと思うんです。それはたぶん俳句が〈心情的率直さの回避〉として、川柳が〈心情的率直さの生成〉であることと(あくまで私が思っていることだけれど)関係しているのかもしれないって思います。
俳句はたぶん心情に率直なのではなくて、モノに率直なんだとおもうんです。一方で、川柳はモノに率直なのではなく、心情に率直である。だから、川柳ではモノがたくさん出てくるんだけれど、モノは物質性を離れて、モノの心情のようなものが出てくる。心情っていうのは〈奥〉のことです。俳句がモノの〈面〉をなでていくなら、川柳はモノの〈奥〉をひっぱりだしてくる。で、〈好き〉っていうことばは〈奥〉にあるものだから俳句はなかなか使えないのではないかとおもうんです。すごく乱暴に、大ざっぱに対比してみたんですが、川柳の〈好き〉をめぐる背景にはそういったものがあるんではないかと思うんです。
だからこのしおとさんの句の「好き」が「地下」と関連づけられているのってちょっと意味深だと思うんですね。なぜなら、「地下」はひとつの〈奥〉の表象だからです。その意味でこの「好き」は川柳をめぐる〈好き〉だと思うんですね。〈奥〉に、「地下」に裏付けられた「好き」だから。
だから乱暴にまた言い切ってみようとおもうんですが、俳句が〈表面の組織化〉だとするなら、川柳は〈奥の構造化〉のようにおもうんです。そう乱暴に今はかんがえてみたいと思います。好き、から始めて。
君が好き青や緑も好きになる 竹井紫乙
ウディ・アレン『マッチポイント』(2005)。〈好き〉と〈罪〉と〈罰〉って関係がけっこう深いですよね。誰かを好きになることは罪になる場合があるし、罰を受ける場合もある。ウディ・アレンってよくエゴイスティックにひとを殺す殺人者を描くんですね。たとえばこの映画では妊娠した浮気相手が邪魔になって殺してしまう。で、この映画がおもしろいのは、〈勧善懲悪〉というか〈罪と罰〉の枠組みのなかで殺人者が葛藤しながらも、まったくその枠組みが機能しないで逸れていくことです。罪だけが発動されて、罰は失効してしまう。そういうときの、ふわふわした罪のありかたを描くのがウディ・アレンはすごくうまいなって思うんです。宗教学では、〈罪と赦し〉はセットになっていて、ひとは〈赦し〉を得て、はじめて罪を自覚するんですが、〈罰〉に出会えない以上は赦しを得る機会もなく、罪の宛先が不在になってしまう。その不在のなかにおかれた人間の映画は、とつぜんカメラがとぎれることで映画が終わってしまう。そういう中途半端な終わり方がすごく有効でおもしろい映画だなっておもったんです。ウディ・アレンもその意味で、〈表面〉と〈奥〉をたえず往還しながら映画として構造化しているひとなんじゃないかと思ったんです。
【「好き」の使者】
紫乙さんの句集を読んでいると、けっこう「好き」っていう言葉がひんぱんに出てくることに気がつくんですね。しかもひとつひとつの「好き」の強度がつよいんです。つよいんですが、たくさん出てくるってことは、全方位的に「好き」が放射されながらもそのひとつひとつがきちんとおのおのの強度をもっているっていうことになります。
この「好き」っていう言葉なんだけれども、川柳だと組み込むことができるけれど、俳句だとなかなかむずかしいように思うんですよね。
乱暴な見方ではあるけれど、俳句が〈好きの回避〉なら、川柳は〈好きの生成〉であるんじゃないかと思うんです。それはたぶん俳句が〈心情的率直さの回避〉として、川柳が〈心情的率直さの生成〉であることと(あくまで私が思っていることだけれど)関係しているのかもしれないって思います。
俳句はたぶん心情に率直なのではなくて、モノに率直なんだとおもうんです。一方で、川柳はモノに率直なのではなく、心情に率直である。だから、川柳ではモノがたくさん出てくるんだけれど、モノは物質性を離れて、モノの心情のようなものが出てくる。心情っていうのは〈奥〉のことです。俳句がモノの〈面〉をなでていくなら、川柳はモノの〈奥〉をひっぱりだしてくる。で、〈好き〉っていうことばは〈奥〉にあるものだから俳句はなかなか使えないのではないかとおもうんです。すごく乱暴に、大ざっぱに対比してみたんですが、川柳の〈好き〉をめぐる背景にはそういったものがあるんではないかと思うんです。
だからこのしおとさんの句の「好き」が「地下」と関連づけられているのってちょっと意味深だと思うんですね。なぜなら、「地下」はひとつの〈奥〉の表象だからです。その意味でこの「好き」は川柳をめぐる〈好き〉だと思うんですね。〈奥〉に、「地下」に裏付けられた「好き」だから。
だから乱暴にまた言い切ってみようとおもうんですが、俳句が〈表面の組織化〉だとするなら、川柳は〈奥の構造化〉のようにおもうんです。そう乱暴に今はかんがえてみたいと思います。好き、から始めて。
君が好き青や緑も好きになる 竹井紫乙
ウディ・アレン『マッチポイント』(2005)。〈好き〉と〈罪〉と〈罰〉って関係がけっこう深いですよね。誰かを好きになることは罪になる場合があるし、罰を受ける場合もある。ウディ・アレンってよくエゴイスティックにひとを殺す殺人者を描くんですね。たとえばこの映画では妊娠した浮気相手が邪魔になって殺してしまう。で、この映画がおもしろいのは、〈勧善懲悪〉というか〈罪と罰〉の枠組みのなかで殺人者が葛藤しながらも、まったくその枠組みが機能しないで逸れていくことです。罪だけが発動されて、罰は失効してしまう。そういうときの、ふわふわした罪のありかたを描くのがウディ・アレンはすごくうまいなって思うんです。宗教学では、〈罪と赦し〉はセットになっていて、ひとは〈赦し〉を得て、はじめて罪を自覚するんですが、〈罰〉に出会えない以上は赦しを得る機会もなく、罪の宛先が不在になってしまう。その不在のなかにおかれた人間の映画は、とつぜんカメラがとぎれることで映画が終わってしまう。そういう中途半端な終わり方がすごく有効でおもしろい映画だなっておもったんです。ウディ・アレンもその意味で、〈表面〉と〈奥〉をたえず往還しながら映画として構造化しているひとなんじゃないかと思ったんです。
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