【希望の川柳 三日目】的確な希望-津田暹-
- 2016/05/16
- 00:35
10時10分35秒です僕も 津田暹
【「僕も」の転換】
この津田さんの句でおもしろいなと思ったのが、ピンポイントな時間のあり方とその共有なんですね。
「10時10分35秒です」はピンポイントなぎりぎりまでせばめられた時間のありようだと思うんです。もうほんとうに限界までせばめられた。極小化された。これって実は〈共有〉できない時間感覚なんじゃないかとおもうんですよ。ふだんひとはもっと茫漠とした時間を生きていますからね。だからひとが的確に時間を意識したとき、そのひとは〈時間〉よりも一歩前に出ているんじゃないかとおもうんですよね。逆説的なことですが、ひとは時間を意識したときに、時間の外に出てしまうんじゃないかと。だってそうですよね。35秒です、と意識したしゅんかん、もう次にやってくる36秒から外には出てしまっていますから。
でもこの句がおもしろいのはこの的確さに「僕も」という共有意識がくっついたことだとおもうんですよね。時間の外に出たひとが「僕も」という発話によって時間の内側に、みんなの時間のなかにもういちどかえってくる。
これって構造を図式的にあらわすと、極小化+極大化になるとおもうんですよ。的確さと普遍です。その両極端が定型によってまとめられている。だとしたらこの語り手のいる場所はどこなんだろう、っていうのを考えることがこの句をかんがえることになるのかなって思うんですよ。
時間ってそういう極小と極大がつねに一緒にある。
6日9日15日って何ですか 津田暹
市川崑『細雪』(1983)。市川崑はこの谷崎潤一郎の原作を映画化するにあたって、背景に鳴り響く音楽として電子音的なオンブラマイフをもってきたんですが、それがすごく合うなって思ったんですよね。谷崎潤一郎って人物たちが関西弁でしゃべっているけれど、そういう局地的なひとの生のありようを映画はバックでオンブラマイフを鳴らしながら極大な、普遍的な観点から語り直そうとしているんじゃないかと思うんですよね。市川崑ってつねにそういう局地性の普遍化をしていたひとなんじゃないかと思うんです。石坂浩二の金田一シリーズもそうで。ああいうローカルな場所で起きた事件を、たとえば石坂浩二というやさしげで抽象的で透過的で普遍的な記号で翻訳していく。そういうことを市川崑って映画でしていたきがするんですよ。
【「僕も」の転換】
この津田さんの句でおもしろいなと思ったのが、ピンポイントな時間のあり方とその共有なんですね。
「10時10分35秒です」はピンポイントなぎりぎりまでせばめられた時間のありようだと思うんです。もうほんとうに限界までせばめられた。極小化された。これって実は〈共有〉できない時間感覚なんじゃないかとおもうんですよ。ふだんひとはもっと茫漠とした時間を生きていますからね。だからひとが的確に時間を意識したとき、そのひとは〈時間〉よりも一歩前に出ているんじゃないかとおもうんですよね。逆説的なことですが、ひとは時間を意識したときに、時間の外に出てしまうんじゃないかと。だってそうですよね。35秒です、と意識したしゅんかん、もう次にやってくる36秒から外には出てしまっていますから。
でもこの句がおもしろいのはこの的確さに「僕も」という共有意識がくっついたことだとおもうんですよね。時間の外に出たひとが「僕も」という発話によって時間の内側に、みんなの時間のなかにもういちどかえってくる。
これって構造を図式的にあらわすと、極小化+極大化になるとおもうんですよ。的確さと普遍です。その両極端が定型によってまとめられている。だとしたらこの語り手のいる場所はどこなんだろう、っていうのを考えることがこの句をかんがえることになるのかなって思うんですよ。
時間ってそういう極小と極大がつねに一緒にある。
6日9日15日って何ですか 津田暹
市川崑『細雪』(1983)。市川崑はこの谷崎潤一郎の原作を映画化するにあたって、背景に鳴り響く音楽として電子音的なオンブラマイフをもってきたんですが、それがすごく合うなって思ったんですよね。谷崎潤一郎って人物たちが関西弁でしゃべっているけれど、そういう局地的なひとの生のありようを映画はバックでオンブラマイフを鳴らしながら極大な、普遍的な観点から語り直そうとしているんじゃないかと思うんですよね。市川崑ってつねにそういう局地性の普遍化をしていたひとなんじゃないかと思うんです。石坂浩二の金田一シリーズもそうで。ああいうローカルな場所で起きた事件を、たとえば石坂浩二というやさしげで抽象的で透過的で普遍的な記号で翻訳していく。そういうことを市川崑って映画でしていたきがするんですよ。
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