【感想】いつもこうだ巨大な猿に襲われてどこへ逃げてもすぐに見つかる まぬがれてみちお
- 2016/05/16
- 06:56
いつもこうだ巨大な猿に襲われてどこへ逃げてもすぐに見つかる まぬがれてみちお
まただ のり弁掻き込んでいるときに後頭部から撃たれる夢だ 岡野大嗣
【どうやったら抜け出せるのか】
ときどき、短歌において、悪夢のような循環地獄にハマってしまっているひとがいてちょっとそれが興味深いなって思うんですね。
まぬがれてさんの短歌なら「いつもこうだ」、岡野さんなら「まただ」が循環地獄を〈端的〉に指し示しています。語り手はずっと巨大な猿に襲われているし、ずっと後頭部からなんどもなんども撃ち抜かれている。終わらないわけです。定型は終わるのに。
で、おもしろいのはわたしたちが短歌を読むときには必ず少なくとも最低二回は読むんじゃないかって思うんですよ。一読して意味をなんとなく把握したらそれを把持するためにもう一度あたまからさらっと読む。短歌においては、実は潜在的には初句は「いつもこうだ」「まただ」になっているんじゃないかと思うんですよね。わたしたちは一読目の解釈をひっさげてもう一度おなじ歌の初句に向かうから。そういう定型のぐるぐる感ってあるんじゃないかと思うんですよ。
で、それっていったいどういうことなのかっていうと、実は結句ってそんなに結句として機能していないんじゃないか、むしろ結句は初句につながっていくんじゃないかってことなんです。そしてその短歌の悪夢を発見しているのがこのまぬがれてさんや岡野さんの短歌なのかなっておもうんです。「すぐに見つか」っても意味はないし、「撃たれ」ても意味はない。またすぐに次の巨大な猿はやってくるし、また次ののり弁が用意されるから。
悪夢ってなんなのかっていうとたぶん形式的な問題なんじゃないかとおもうんです。その悪夢の形式性に気がついているのが実は短歌自身なんじゃないかとおもうことがある。
センサーの反応しない園田さんドアの向こうでまた立ち尽くす まぬがれてみちお
ムーア『シュガー・ラッシュ』(2012)。さいきん『シュガー・ラッシュ』を観ていたら、ゲームのボスキャラだったクッパやベガやエッグマンなどが出ていて面白かったんですが、この映画ってゲームは形式的な枠組みの問題だから、その枠組みの内側と外側を描けば物語になるんだよ、っていう映画だと思うんですね。たとえば、ファミコンにはバグっていうのがあるのだけれど、バグによってキャラクターが崩れたりする。そうするとそこがわたしたちの世界の外側とゲームのなかのデータとしての内側との接点になっている。なにかそこにゲームの皮膚感覚のようなものがあったのではないかと思うんです。ああゲームは外につながっているのかもしれないっていう。決してデータのなかで完結していないぞっていう。そういうめいめいのジャンルの形式を問題にすると物語が生まれてくる。それってちょっと不思議だなあって思いました。
まただ のり弁掻き込んでいるときに後頭部から撃たれる夢だ 岡野大嗣
【どうやったら抜け出せるのか】
ときどき、短歌において、悪夢のような循環地獄にハマってしまっているひとがいてちょっとそれが興味深いなって思うんですね。
まぬがれてさんの短歌なら「いつもこうだ」、岡野さんなら「まただ」が循環地獄を〈端的〉に指し示しています。語り手はずっと巨大な猿に襲われているし、ずっと後頭部からなんどもなんども撃ち抜かれている。終わらないわけです。定型は終わるのに。
で、おもしろいのはわたしたちが短歌を読むときには必ず少なくとも最低二回は読むんじゃないかって思うんですよ。一読して意味をなんとなく把握したらそれを把持するためにもう一度あたまからさらっと読む。短歌においては、実は潜在的には初句は「いつもこうだ」「まただ」になっているんじゃないかと思うんですよね。わたしたちは一読目の解釈をひっさげてもう一度おなじ歌の初句に向かうから。そういう定型のぐるぐる感ってあるんじゃないかと思うんですよ。
で、それっていったいどういうことなのかっていうと、実は結句ってそんなに結句として機能していないんじゃないか、むしろ結句は初句につながっていくんじゃないかってことなんです。そしてその短歌の悪夢を発見しているのがこのまぬがれてさんや岡野さんの短歌なのかなっておもうんです。「すぐに見つか」っても意味はないし、「撃たれ」ても意味はない。またすぐに次の巨大な猿はやってくるし、また次ののり弁が用意されるから。
悪夢ってなんなのかっていうとたぶん形式的な問題なんじゃないかとおもうんです。その悪夢の形式性に気がついているのが実は短歌自身なんじゃないかとおもうことがある。
センサーの反応しない園田さんドアの向こうでまた立ち尽くす まぬがれてみちお
ムーア『シュガー・ラッシュ』(2012)。さいきん『シュガー・ラッシュ』を観ていたら、ゲームのボスキャラだったクッパやベガやエッグマンなどが出ていて面白かったんですが、この映画ってゲームは形式的な枠組みの問題だから、その枠組みの内側と外側を描けば物語になるんだよ、っていう映画だと思うんですね。たとえば、ファミコンにはバグっていうのがあるのだけれど、バグによってキャラクターが崩れたりする。そうするとそこがわたしたちの世界の外側とゲームのなかのデータとしての内側との接点になっている。なにかそこにゲームの皮膚感覚のようなものがあったのではないかと思うんです。ああゲームは外につながっているのかもしれないっていう。決してデータのなかで完結していないぞっていう。そういうめいめいのジャンルの形式を問題にすると物語が生まれてくる。それってちょっと不思議だなあって思いました。
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