【希望の川柳 四日目】すべての希望はじゅもん-Sin-
- 2016/05/18
- 05:03
さいごまでいけなかったのはじゅもんのせい Sin
【川柳と呪文】
さいきん割と本気で思っていることなんですが、川柳って呪文に近いんじゃないかなと思っているんですね。前から川柳ってふしぎだなと思ってはいたんですが、川柳がふしぎなのではなくて、川柳は呪文だからふしぎに見えるだけなんじゃないかと。
で、呪文ってなんなのかというと、一見世界のなかで意味が通らなさそうなものが世界の意味を通す言葉ですよね。意味がわからない言葉なんだけれども、その言葉が意味を通してしまう。だから呪文を唱えるとふしぎなことが起こるし、唱えてみなければなにが起こるかわからない場合もある。
で、川柳も似ていて、一見意味が通らないんだけれど、だんだん何度も唱えているうちに、意味が通ってきたりする。それってたぶん〈世界の裏側〉の論理にどこか触れているからじゃないかと思うんですよ。呪文みたいに。
だからこのSinさんの句の〈呪文〉は「じゅもん」にあるのではなく、「さいごまでいけなかったのはじゅもんのせい」という文言そのものにあるように思うんですよ。これはそういう呪文なんだと。じゅもんについて語る言葉そのものが呪文化していくのがこの句なんじゃないかと。
そして呪文が決してすべての正確な意味や効力を把持できないように、川柳もまた「さいごまで」意味をとることはできない。その「さいごまでいけな」いことにいつも希望はあるんじゃないかとおもうんですよね。それは、そのときのその意味は、未来に担保されてあるんだろうから。
ビリビリと剥がされてゆくコンビニのおでん Sin
ヴィスコンティ『若者のすべて』(1960)。たぶんパッと好きな映画監督を思い浮かべたら、ヴィスコンティとフェリーニなんですね。二人はたくさん映画を撮ったけれど、だいたいどれを観てもおもしろい(私は『ベニスに死す』と『81/2』がいちばん好きだけれど)。で、さいきん二人のドキュメンタリーを観て知ったんだけれど、二人はすごく仲が悪かったらしいんですね。でもたぶん同族嫌悪というか二人は表裏のようなポジションだったんだと思うんです。〈過剰性〉を抑圧した状態で描けばヴィスコンティだし、〈過剰性〉を解放したかたちで描けばフェリーニっていう。で、かれらの初期作品って二人ともずいぶん抑制してつくっているけれど、ちょっとその二人の初期作品の感じって似てるんですよね。たとえばこのヴィスコンティの『若者のすべて』とフェリーニの『青春群像』の感じとか。根っこがとてもよく似ている感じがする。きっとだからふたりは〈おなじじゅもん〉をめぐって映画を撮っていたようなきがする。
【川柳と呪文】
さいきん割と本気で思っていることなんですが、川柳って呪文に近いんじゃないかなと思っているんですね。前から川柳ってふしぎだなと思ってはいたんですが、川柳がふしぎなのではなくて、川柳は呪文だからふしぎに見えるだけなんじゃないかと。
で、呪文ってなんなのかというと、一見世界のなかで意味が通らなさそうなものが世界の意味を通す言葉ですよね。意味がわからない言葉なんだけれども、その言葉が意味を通してしまう。だから呪文を唱えるとふしぎなことが起こるし、唱えてみなければなにが起こるかわからない場合もある。
で、川柳も似ていて、一見意味が通らないんだけれど、だんだん何度も唱えているうちに、意味が通ってきたりする。それってたぶん〈世界の裏側〉の論理にどこか触れているからじゃないかと思うんですよ。呪文みたいに。
だからこのSinさんの句の〈呪文〉は「じゅもん」にあるのではなく、「さいごまでいけなかったのはじゅもんのせい」という文言そのものにあるように思うんですよ。これはそういう呪文なんだと。じゅもんについて語る言葉そのものが呪文化していくのがこの句なんじゃないかと。
そして呪文が決してすべての正確な意味や効力を把持できないように、川柳もまた「さいごまで」意味をとることはできない。その「さいごまでいけな」いことにいつも希望はあるんじゃないかとおもうんですよね。それは、そのときのその意味は、未来に担保されてあるんだろうから。
ビリビリと剥がされてゆくコンビニのおでん Sin
ヴィスコンティ『若者のすべて』(1960)。たぶんパッと好きな映画監督を思い浮かべたら、ヴィスコンティとフェリーニなんですね。二人はたくさん映画を撮ったけれど、だいたいどれを観てもおもしろい(私は『ベニスに死す』と『81/2』がいちばん好きだけれど)。で、さいきん二人のドキュメンタリーを観て知ったんだけれど、二人はすごく仲が悪かったらしいんですね。でもたぶん同族嫌悪というか二人は表裏のようなポジションだったんだと思うんです。〈過剰性〉を抑圧した状態で描けばヴィスコンティだし、〈過剰性〉を解放したかたちで描けばフェリーニっていう。で、かれらの初期作品って二人ともずいぶん抑制してつくっているけれど、ちょっとその二人の初期作品の感じって似てるんですよね。たとえばこのヴィスコンティの『若者のすべて』とフェリーニの『青春群像』の感じとか。根っこがとてもよく似ている感じがする。きっとだからふたりは〈おなじじゅもん〉をめぐって映画を撮っていたようなきがする。
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