【希望の川柳 五日目】元気な希望-弘津秋の子-
- 2016/05/28
- 23:16
魚とご飯しっかり食べて逢いにゆく 弘津秋の子
(『句集 アリア』)
【元気な密会】
現代川柳って〈逢う〉っていう動詞がなかなかに多いと思うんですね。
これは短歌や俳句にくらべても多いと思うんです。私はけっこう実はこの〈逢う〉って動詞に川柳性のなにがしかがあるんじゃないかと思っているんですが、大事なことはこの〈逢う〉って動詞がそんなに率直に〈逢う〉として機能していないところだと思うんです。
この〈逢う〉って動詞はすごくスイートな動詞ですよね。この逢うって漢字から逢瀬とか逢い引きって言葉がつくられているので、すごくラブラブな動詞なんですね。
でも、現代川柳ってその〈逢う〉を引き入れながらも転覆していくところに川柳性があると思うんですね。言ってみれば、川柳性とは〈記号の転覆〉じゃないかと。それがこの〈逢う〉の用法によくあらわれているんじゃないかと。
たとえば秋の子さんの句でいえば、「魚とご飯しっかり食べて」でスイート性が剥奪されるんですね。〈逢う〉ためのエネルギー補給としてはかなり現実的に、しかも「魚とご飯」としっかり〈定食〉になっていますよね。漠然と、ちからを蓄えているんじゃなくて、かなり〈実際的〉なんです。というかこの句は〈逢う〉句というよりは〈食べる〉句すよ。上5・中7の句のほとんど半分以上を使って語り手はしっかりご飯を食べているんですから。
で、それによってはじめて〈逢う〉の初めての用法が出てくると思うんですよね。川柳にはそういう〈用法の転置〉があると思うんです。そうすると〈少しちがった生の様相〉が描き出せる。〈ちがった用法〉は〈ちがった様相〉につながっている。
それが川柳の希望なんじゃないか。わたしは、おじぎする。(まばらな拍手)
あたたかい拍手もらっているところ 弘津秋の子
FMシアター『時の雨』(1999)。小説家の車谷長吉さんと詩人の高橋順子さんのふたりの遅い結婚生活の話なんですが、高橋順子さんが詩集のあとがきで言っていたように、たぶん、生活が文学になってきてしまったら、それをわたしたちは〈書く〉しかないような気がするんですよね。そういうところに〈文学〉っていうものがあるようなきがするんです。でもそれは運命のひとのようにいつやってくるものなのかはわからない。それは〈時の雨〉のようなものだから。でもそれを待っていることはわかる。だからそのために日々、いろんな言葉やひととであいながら、その〈時の雨〉をずっと待っているようなきがするんです。雨だからとつぜんやってくるわけですよね。転がるように運命のひとやことばはやってくる。
(『句集 アリア』)
【元気な密会】
現代川柳って〈逢う〉っていう動詞がなかなかに多いと思うんですね。
これは短歌や俳句にくらべても多いと思うんです。私はけっこう実はこの〈逢う〉って動詞に川柳性のなにがしかがあるんじゃないかと思っているんですが、大事なことはこの〈逢う〉って動詞がそんなに率直に〈逢う〉として機能していないところだと思うんです。
この〈逢う〉って動詞はすごくスイートな動詞ですよね。この逢うって漢字から逢瀬とか逢い引きって言葉がつくられているので、すごくラブラブな動詞なんですね。
でも、現代川柳ってその〈逢う〉を引き入れながらも転覆していくところに川柳性があると思うんですね。言ってみれば、川柳性とは〈記号の転覆〉じゃないかと。それがこの〈逢う〉の用法によくあらわれているんじゃないかと。
たとえば秋の子さんの句でいえば、「魚とご飯しっかり食べて」でスイート性が剥奪されるんですね。〈逢う〉ためのエネルギー補給としてはかなり現実的に、しかも「魚とご飯」としっかり〈定食〉になっていますよね。漠然と、ちからを蓄えているんじゃなくて、かなり〈実際的〉なんです。というかこの句は〈逢う〉句というよりは〈食べる〉句すよ。上5・中7の句のほとんど半分以上を使って語り手はしっかりご飯を食べているんですから。
で、それによってはじめて〈逢う〉の初めての用法が出てくると思うんですよね。川柳にはそういう〈用法の転置〉があると思うんです。そうすると〈少しちがった生の様相〉が描き出せる。〈ちがった用法〉は〈ちがった様相〉につながっている。
それが川柳の希望なんじゃないか。わたしは、おじぎする。(まばらな拍手)
あたたかい拍手もらっているところ 弘津秋の子
FMシアター『時の雨』(1999)。小説家の車谷長吉さんと詩人の高橋順子さんのふたりの遅い結婚生活の話なんですが、高橋順子さんが詩集のあとがきで言っていたように、たぶん、生活が文学になってきてしまったら、それをわたしたちは〈書く〉しかないような気がするんですよね。そういうところに〈文学〉っていうものがあるようなきがするんです。でもそれは運命のひとのようにいつやってくるものなのかはわからない。それは〈時の雨〉のようなものだから。でもそれを待っていることはわかる。だからそのために日々、いろんな言葉やひととであいながら、その〈時の雨〉をずっと待っているようなきがするんです。雨だからとつぜんやってくるわけですよね。転がるように運命のひとやことばはやってくる。
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