【感想】待たされて苺の夜に立っている 田島健一
- 2016/05/30
- 01:09
待たされて苺の夜に立っている 田島健一
【松尾場所】
『オルガン』2号から田島さんの一句です。
ときどき自分にとって俳句ってなにかを考えたときに、それはひとつの《場所論》なんじゃないかと思っているんです。すごく暴論めいたことをいうと、松尾芭蕉の「芭蕉」が《BASYO》=場所という響きをもっていたことって自分にとっては少し感慨深いというかおもしろいんですね。
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
も、やっぱり《場所論》なんじゃないかと思っているんです。
で、場所論ってなにかというと、《場所に踏みとどまる》ことです。場所に踏みとどまっていてそれ以上のことはしないということ。
だからわたしにとって西原天気さんのソファが明日来る句や野間幸恵さんの水から場所が生まれる句も《場所》のことを言及した《場所論》になっているので自分にとっての《俳句》なんですね。
たとえば田島さんの掲句も「苺の夜」に「に」という場所化する助詞をつけてその「苺の夜」《に》「立っている」。そうすることで「苺の夜」がひとつの場所になっている。そしてそこに、踏みとどまる。
しかもそれは「待たされ」る場所なわけです。語り手だけが「苺の夜」を構成しているわけではなくて、語り手を待たせる誰かも共にその「苺の夜」を構成している、そういう《場所》になっている。
そうした「苺」という季語を場所化することによって、そしてその《場所》が他者にたえずひらかれてあることで、自分だけではどうにもならない《場所性》としての《場所論》=〈俳句〉になっていると思うんです。
その《どうにもならなさ》って「蛙飛び込む水の音」という自分だけでは場所=「古池」を統括できない《場所のどうにもならなさ》に通底しているのかなとも思うんです。
そうした他者が次から次へと参入してくるずっと《待たされた場所》=ひらかれてゆく場所というのは「動画」だってありうるわけです。「動画」もずっとそれを再生するのを「待たされ」た場所としてありつづけるから。しかも、マグマ。
雪渓をマグマが降りてくる動画 田島健一
キャメロン『タイタニック』(1997)。キャメロンが後に洞窟探検映画をつくったときにあっそうかと思ったのは、キャメロンは結局『タイタニック』を撮ったのは、《場所論》を撮りたかったんじゃないかと思ったんですね。甘い恋愛の話とか、ひとびとが客船に寄せる熱い想いとかではなくて。どこにも出られない、行き場のない空間で、しかも自分の《場所》へのどうにもならなさを実感する場所。洞窟みたいな。で、ひとは場所に対してどうにもならなさを痛感したしゅんかん、なにをするかというと《写生》をするんじゃないかとおもうんですよ。それは今眼の前にある風景をじっとみることで、ふだんとは違った視線で風景をとらえるようになる。それは場所のどうにもならなさがあって、動けなくなって、はじめてできることなんじゃないかとも思うんです。でも深夜寝るまえに書いているのでいろいろとんでもないことをいっている可能性もあるけれど、ディカプリオがウィンスレットを後ろから抱いている有名なシーンは《写生》をしようとしていたんじゃないかって思うんですよ。タイタニック号っていうのはそういうひとつの写生空間になっていたんじゃないかと。ちなみにディカプリオは絵を描いていましたよね。一所懸命、ウィンスレットの裸を《写生》していた。でもそれはどこかウィンスレットではない。似ていないし、どこかからだがいびつになっている。なにか視線にいびつさやズレが生じている。それってまさに《写生》なわけです。だからもしかしたら、『タイタニック』は俳句映画なのかもしれないとも思うんです。いや、
【松尾場所】
『オルガン』2号から田島さんの一句です。
ときどき自分にとって俳句ってなにかを考えたときに、それはひとつの《場所論》なんじゃないかと思っているんです。すごく暴論めいたことをいうと、松尾芭蕉の「芭蕉」が《BASYO》=場所という響きをもっていたことって自分にとっては少し感慨深いというかおもしろいんですね。
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
も、やっぱり《場所論》なんじゃないかと思っているんです。
で、場所論ってなにかというと、《場所に踏みとどまる》ことです。場所に踏みとどまっていてそれ以上のことはしないということ。
だからわたしにとって西原天気さんのソファが明日来る句や野間幸恵さんの水から場所が生まれる句も《場所》のことを言及した《場所論》になっているので自分にとっての《俳句》なんですね。
たとえば田島さんの掲句も「苺の夜」に「に」という場所化する助詞をつけてその「苺の夜」《に》「立っている」。そうすることで「苺の夜」がひとつの場所になっている。そしてそこに、踏みとどまる。
しかもそれは「待たされ」る場所なわけです。語り手だけが「苺の夜」を構成しているわけではなくて、語り手を待たせる誰かも共にその「苺の夜」を構成している、そういう《場所》になっている。
そうした「苺」という季語を場所化することによって、そしてその《場所》が他者にたえずひらかれてあることで、自分だけではどうにもならない《場所性》としての《場所論》=〈俳句〉になっていると思うんです。
その《どうにもならなさ》って「蛙飛び込む水の音」という自分だけでは場所=「古池」を統括できない《場所のどうにもならなさ》に通底しているのかなとも思うんです。
そうした他者が次から次へと参入してくるずっと《待たされた場所》=ひらかれてゆく場所というのは「動画」だってありうるわけです。「動画」もずっとそれを再生するのを「待たされ」た場所としてありつづけるから。しかも、マグマ。
雪渓をマグマが降りてくる動画 田島健一
キャメロン『タイタニック』(1997)。キャメロンが後に洞窟探検映画をつくったときにあっそうかと思ったのは、キャメロンは結局『タイタニック』を撮ったのは、《場所論》を撮りたかったんじゃないかと思ったんですね。甘い恋愛の話とか、ひとびとが客船に寄せる熱い想いとかではなくて。どこにも出られない、行き場のない空間で、しかも自分の《場所》へのどうにもならなさを実感する場所。洞窟みたいな。で、ひとは場所に対してどうにもならなさを痛感したしゅんかん、なにをするかというと《写生》をするんじゃないかとおもうんですよ。それは今眼の前にある風景をじっとみることで、ふだんとは違った視線で風景をとらえるようになる。それは場所のどうにもならなさがあって、動けなくなって、はじめてできることなんじゃないかとも思うんです。でも深夜寝るまえに書いているのでいろいろとんでもないことをいっている可能性もあるけれど、ディカプリオがウィンスレットを後ろから抱いている有名なシーンは《写生》をしようとしていたんじゃないかって思うんですよ。タイタニック号っていうのはそういうひとつの写生空間になっていたんじゃないかと。ちなみにディカプリオは絵を描いていましたよね。一所懸命、ウィンスレットの裸を《写生》していた。でもそれはどこかウィンスレットではない。似ていないし、どこかからだがいびつになっている。なにか視線にいびつさやズレが生じている。それってまさに《写生》なわけです。だからもしかしたら、『タイタニック』は俳句映画なのかもしれないとも思うんです。いや、
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