【希望の川柳 七日目】限りなくゼロに近い希望-兵頭全郎-
- 2016/06/02
- 12:18
風車風見鶏風くるくるくると墜ちていくのが最後尾行から直帰刑事は夜の顔という顔がくるくる遊園地にも足跡のない轍とも堀ともとれる幅に立つとすぐ椅子を持ち去る第二秘書くるくるさっきまでの罠らしく唇として開けてある 兵頭全郎
【すべてが(ほぼ)0になる】
全郎さんの句集『n≠0』のひとつの特徴を自分なりに考えてみたときにそれは、〈内面〉をいっさい構成させない、っていうことなんじゃないかと思うんです。
たとえば句集っていくら連なっていく句と句が無関係であっても、そこに句が連続することであらわれてくる〈意味の奥行き〉というか〈意味の空間〉のようなものが出てくる。それが句=集がもたらしてくる〈内面〉だとおもうんですが、この『n≠0』はそういうものをつくる余地がない。
たとえばそれは上に掲げた非常に長いくるくるした句が象徴的だと思うんですが、たとえば読み手は〈どこ〉から〈どこ〉を区切って読んでもいい。区切り方によって〈意味〉は異なります。それなりに意味はでてくる。でも区切り方によって意味が異なるということは、意味は恣意的であり、意味は限りなく0に近いということです。それこそ意味はずっと恣意的なかたちで「罠らしく唇として開けてある」。
で、そういう〈内面〉を排除する句集にであったときに私がふっと思ったのは、この句集は〈鑑賞という制度〉を浮き彫りにしているんじゃないかということです。鑑賞というのはときに読み手がみずからの〈内面〉をたぎらせ、その句にじしんの内面を充填していく作業になる。でもこの句集はどのような鑑賞もそれは任意としてのnなんだよ、しかし意味の量としては0ではないよ、というかたちで相対化しつづけるものとしてあるのではないかと思うんです。《鑑賞者、あなたはいったい誰なのか》と。
実は、句っていうものはすでに鑑賞とセットとしてあるかもしれない。でもそれを意識的に切断させたり、分離させたりしたらどうなるだろう。それがこの句集の〈仕掛け〉になっているようにも思うのです。
水面をゆがむ光と河童文学 兵頭全郎
コーエン兄弟『ノーカントリー』(2007)。『バートンフィンク』とか『ファーゴ』でもそうなんだけれど、コーエン兄弟の映画に出てくる殺人犯は〈内面〉が排除されているように思うんですよね。でもそれって実は殺人事件が起きるたびに卒業アルバムまで持ち出して殺人犯の〈心理〉を解読=〈鑑賞〉しようとするメディアの制度を浮き彫りにしているんじゃないかとも思うんです。そういう〈n≠0〉の場所でひとが生き延びたり死んだりしていく空間。そういう空間をコーエン兄弟は描いているんじゃないか。
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