【希望の川柳 八日目】言葉の終わりの風景-岩根彰子-
- 2016/06/06
- 00:23
マンホール溢れさせてる疒 岩根彰子
【言葉が言葉を言葉で描く】
この岩根さんの句って「疒(やまいだれ)」が「マンホール」を持ち上げるくらいに物質化してると思うんですね。
現代川柳ってこの岩根さんの句のようにときどき漢字を〈解体〉してモノにしてしまうところがあると思うんです。そういう表現をするのが川柳なんだと。
たとえば、佐藤みさ子さんの川柳に、
言葉だけ立ちふさがってくれたのは 佐藤みさ子
っていう句があるんだけれど、この句のように、〈モノ化した言葉だけが世界を変えることができる〉という世界観が現代川柳の基底にあるんじゃないかと思うんです。「溢れさせ」たり「立ちふさがってくれ」るのは文字どおり純粋な〈言葉〉だけなんです。
でも、不思議ですよね。そもそもが川柳って〈純粋な言語〉なはずなんです。17音の。
ということは、〈言葉が言葉を言葉で表現する〉のが現代川柳だということになると思うんです。
だからたとえばそういう定式で考えたときに、くんじろうさんのこんな句を思い出してもいいと思うんですよ。
めりめりを探し続けて三千里 くんじろう
これってなにをしているかというと「めりめり」という言葉を探してる句なんです。ここに潜在的にあるのはもちろん〈母〉です。本来は『母をたずねて三千里』なんだけれど、川柳の枠組みでは「めりめり」になる。「めりめり」とは〈言語〉そのものです。川柳においては、言葉のなかで言葉をさがすのです。
だから川柳をあえてイメージで図式化するなら、
言葉→言葉
という図式が成り立つんじゃないかと思うんです。少なくともひとつの大きな流れとしてこういういベクトルがあるんじゃないかと。言語芸術、ではなくて、言語志向言語芸術、のような。
そうでないと「ハヤシライス」と「以下同文」が「手」をつなぐ風景が理解できないんです。どうしたって。言葉が言葉と手をつなぐ風景が見えないと、「ハヤシライス」と「以下同文」は出会えないのではないか。
ハヤシライスと以下同文が手をむすぶ 岩根彰子
フーパー『レ・ミゼラブル』(2012)。ミュージカル映画になっている『レ・ミゼラブル』なんですが、ミュージカルってちょっと短詩というか現代川柳に似ていると思うんです。なにが似ているかというと、ミュージカルっていうのは常に〈志向的〉というか、作品が作品を志向しているのがミュージカルだと思うんですね。どういうことかっていうと、歌いますよね、とつぜん。今ある状況を言語化しているんだけれど、それを歌をとおしてしていることによって、歌がその状況を参照しているんです。だから、観ているひとも、あれ、歌いはじめたな、ってちょっと冷静になるわけですよね。客観的になるというか。会話していた友達が歌いはじめたら、あれ、どうした、ってなるのとそれは似ています。ミュージカルってそういう形式が状況を参照することで冷静になる表現形式だと思うんです。川柳も似ていて、言語が言語を志向することによって、まっさらで冷静な言語の風景を描き出すんだと思うんです。あれっ、どうしたというつまずきを状況に与える。そういう言語形式が言語形式を志向するのが川柳だと思うんです。だから究極的に言うと、川柳に内容はなくて、そういう志向性だけがあるんじゃないかと思うんです。ひとつの見方として。
ちなみに、ラッセル・クロウの森のクマさんのようなジャベールもいいですが、マルコビッチの能面のようなジャベールもよかったですよ。
【言葉が言葉を言葉で描く】
この岩根さんの句って「疒(やまいだれ)」が「マンホール」を持ち上げるくらいに物質化してると思うんですね。
現代川柳ってこの岩根さんの句のようにときどき漢字を〈解体〉してモノにしてしまうところがあると思うんです。そういう表現をするのが川柳なんだと。
たとえば、佐藤みさ子さんの川柳に、
言葉だけ立ちふさがってくれたのは 佐藤みさ子
っていう句があるんだけれど、この句のように、〈モノ化した言葉だけが世界を変えることができる〉という世界観が現代川柳の基底にあるんじゃないかと思うんです。「溢れさせ」たり「立ちふさがってくれ」るのは文字どおり純粋な〈言葉〉だけなんです。
でも、不思議ですよね。そもそもが川柳って〈純粋な言語〉なはずなんです。17音の。
ということは、〈言葉が言葉を言葉で表現する〉のが現代川柳だということになると思うんです。
だからたとえばそういう定式で考えたときに、くんじろうさんのこんな句を思い出してもいいと思うんですよ。
めりめりを探し続けて三千里 くんじろう
これってなにをしているかというと「めりめり」という言葉を探してる句なんです。ここに潜在的にあるのはもちろん〈母〉です。本来は『母をたずねて三千里』なんだけれど、川柳の枠組みでは「めりめり」になる。「めりめり」とは〈言語〉そのものです。川柳においては、言葉のなかで言葉をさがすのです。
だから川柳をあえてイメージで図式化するなら、
言葉→言葉
という図式が成り立つんじゃないかと思うんです。少なくともひとつの大きな流れとしてこういういベクトルがあるんじゃないかと。言語芸術、ではなくて、言語志向言語芸術、のような。
そうでないと「ハヤシライス」と「以下同文」が「手」をつなぐ風景が理解できないんです。どうしたって。言葉が言葉と手をつなぐ風景が見えないと、「ハヤシライス」と「以下同文」は出会えないのではないか。
ハヤシライスと以下同文が手をむすぶ 岩根彰子
フーパー『レ・ミゼラブル』(2012)。ミュージカル映画になっている『レ・ミゼラブル』なんですが、ミュージカルってちょっと短詩というか現代川柳に似ていると思うんです。なにが似ているかというと、ミュージカルっていうのは常に〈志向的〉というか、作品が作品を志向しているのがミュージカルだと思うんですね。どういうことかっていうと、歌いますよね、とつぜん。今ある状況を言語化しているんだけれど、それを歌をとおしてしていることによって、歌がその状況を参照しているんです。だから、観ているひとも、あれ、歌いはじめたな、ってちょっと冷静になるわけですよね。客観的になるというか。会話していた友達が歌いはじめたら、あれ、どうした、ってなるのとそれは似ています。ミュージカルってそういう形式が状況を参照することで冷静になる表現形式だと思うんです。川柳も似ていて、言語が言語を志向することによって、まっさらで冷静な言語の風景を描き出すんだと思うんです。あれっ、どうしたというつまずきを状況に与える。そういう言語形式が言語形式を志向するのが川柳だと思うんです。だから究極的に言うと、川柳に内容はなくて、そういう志向性だけがあるんじゃないかと思うんです。ひとつの見方として。
ちなみに、ラッセル・クロウの森のクマさんのようなジャベールもいいですが、マルコビッチの能面のようなジャベールもよかったですよ。
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