【短歌】枕元に…/いのちなき…(毎日新聞・毎日歌壇2016年6月6日・加藤治郎 選/米川千嘉子 選)
- 2016/06/06
- 08:00
「枕元に立っていたのはむしろ俺のほうだったのか」 まばらな拍手 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2016年6月6日・加藤治郎 選)
いのちなき砂のかなしさよむぇいむぇいとペンギンの群れる上野動物園 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2016年6月6日・米川千嘉子 選)
【いきいきと死後】
定型が31音で即座に〈終わる〉表現形式である以上、短歌と〈死〉っていうものは関わりが深いんじゃないかと思ってるんですね。短歌はいつも〈終わり〉を意識せざるをえない形式だから。
で、わたしは岡野大嗣さんの歌集やその歌集に挿絵を描かれていた安福望さんの絵などにも直接ではないかたちで〈生/死〉のテーマがあるんじゃないかなと思いながら読んでいたんですが、岡野さんが強く影響を受けている(と歌集プロフィールに書かれていた)木下龍也さんも短歌のなかでさまざまな〈生/死〉を短歌から問いかけていると思うんですね。
先日上梓された木下龍也さんの歌集『きみを嫌いな奴はクズだよ』の「あとがき」にこんな一節があります。
ここは天国じゃない 天国以外に行くあてはなかったはずなのにな
デジタル時計はずっとぶっ壊れていて 99時99分で時の積み重ねをやめてしまった
で、この「ここは天国じゃない」って一節って木下さんの短歌の世界観にも通じていると思うんですね。たとえ〈わたし〉や〈あなた〉が死んだとしてもまだ〈あと〉がある。「ぶっ壊れ」た世界がある。
たとえばこの歌集のいちばん最後にはこんな歌があります。
欠席のはずの佐藤が校庭を横切っている何か背負って 木下龍也
もちろん「何か」は「何か」なのだからこれを〈死体〉ということはできません。でもここにはまず「欠席」という〈学校空間〉における〈象徴的な死〉があります。その「欠席」者=死者・佐藤の「死・後」を描いているともいえる。さらにこの歌一首だけしかないこの章のタイトルは「おまえを忘れない」なので〈わたし〉が「〈佐藤〉を忘れない」と同時に、「佐藤」が「死んだ〈おまえ〉をわすれない」と思いながら引きずっている「何か」とも重なってきます。「おまえ」と呼ばれる「何か」は「何か」と呼ばれるようなモノになっている以上、〈不穏な何か〉を呼び起こします。
木下さんの短歌は、こうしたすべてが終わってしまった〈あと〉に〈いきいきと動きはじめてしまったなにか〉を見届けようとする視線があると思うんです。
たとえばそれは「核ミサイル」が視界に入ったときに〈いきいきと〉後ずさりしてしまう〈身体〉や「事故車」の横に〈いきいきと〉動きはじめてしまった〈視線〉として。
ぼくたちが核ミサイルを見上げる日どうせ死ぬのに後ずさりして 木下龍也
できたての事故車の横を通過する画廊の客のような僕たち 〃
木下さんの歌集を読むときにわたしたちはいつもその〈あと〉のことを問われているような気がするんです。起こった出来事ばかりで何かを見届けたことになるのか。出来事の〈あと〉こそが、出来事なのではないかと。わたしときみの〈あと〉への想像力。
バッドエンドのための海辺の小屋に来てなぜか照らされている金槌 木下龍也
写メでしか見てないけれどきみの犬はきみを残して死なないでほしい 岡野大嗣
(『かばん』2016年5月号)
井上ひさし『ひょっこりひょうたん島』(1991)。さいきんずっと井上ひさしの舞台をみていて思ったんですが、井上ひさしの劇では〈みんなで歌うこと〉というのは非常に大事に役割をもっています。ひょっこりひょうたん島でも例外なく味方も敵もぜんいんが歌うんですが、問題は、みんな実は〈死んでいる〉ということです。だから死んだ〈あと〉の話なんだけれど、その〈死〉を抑圧しているのが〈いきいきとした歌〉のように思うんですよね。ドン・ガバチョはあしたが駄目ならあさってにしましょ、あさってが駄目ならしあさってにしましょと歌うんだけれど、これはある意味、〈死〉を〈歌〉によってずっと遅延しているとも、いえる。そういう〈いきいきとした死〉は、『父と暮らせば』のような原爆で死んだ死者と共に死後をいきるとはどういうことかにもつながっていく。
(毎日新聞・毎日歌壇2016年6月6日・加藤治郎 選)
いのちなき砂のかなしさよむぇいむぇいとペンギンの群れる上野動物園 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2016年6月6日・米川千嘉子 選)
【いきいきと死後】
定型が31音で即座に〈終わる〉表現形式である以上、短歌と〈死〉っていうものは関わりが深いんじゃないかと思ってるんですね。短歌はいつも〈終わり〉を意識せざるをえない形式だから。
で、わたしは岡野大嗣さんの歌集やその歌集に挿絵を描かれていた安福望さんの絵などにも直接ではないかたちで〈生/死〉のテーマがあるんじゃないかなと思いながら読んでいたんですが、岡野さんが強く影響を受けている(と歌集プロフィールに書かれていた)木下龍也さんも短歌のなかでさまざまな〈生/死〉を短歌から問いかけていると思うんですね。
先日上梓された木下龍也さんの歌集『きみを嫌いな奴はクズだよ』の「あとがき」にこんな一節があります。
ここは天国じゃない 天国以外に行くあてはなかったはずなのにな
デジタル時計はずっとぶっ壊れていて 99時99分で時の積み重ねをやめてしまった
で、この「ここは天国じゃない」って一節って木下さんの短歌の世界観にも通じていると思うんですね。たとえ〈わたし〉や〈あなた〉が死んだとしてもまだ〈あと〉がある。「ぶっ壊れ」た世界がある。
たとえばこの歌集のいちばん最後にはこんな歌があります。
欠席のはずの佐藤が校庭を横切っている何か背負って 木下龍也
もちろん「何か」は「何か」なのだからこれを〈死体〉ということはできません。でもここにはまず「欠席」という〈学校空間〉における〈象徴的な死〉があります。その「欠席」者=死者・佐藤の「死・後」を描いているともいえる。さらにこの歌一首だけしかないこの章のタイトルは「おまえを忘れない」なので〈わたし〉が「〈佐藤〉を忘れない」と同時に、「佐藤」が「死んだ〈おまえ〉をわすれない」と思いながら引きずっている「何か」とも重なってきます。「おまえ」と呼ばれる「何か」は「何か」と呼ばれるようなモノになっている以上、〈不穏な何か〉を呼び起こします。
木下さんの短歌は、こうしたすべてが終わってしまった〈あと〉に〈いきいきと動きはじめてしまったなにか〉を見届けようとする視線があると思うんです。
たとえばそれは「核ミサイル」が視界に入ったときに〈いきいきと〉後ずさりしてしまう〈身体〉や「事故車」の横に〈いきいきと〉動きはじめてしまった〈視線〉として。
ぼくたちが核ミサイルを見上げる日どうせ死ぬのに後ずさりして 木下龍也
できたての事故車の横を通過する画廊の客のような僕たち 〃
木下さんの歌集を読むときにわたしたちはいつもその〈あと〉のことを問われているような気がするんです。起こった出来事ばかりで何かを見届けたことになるのか。出来事の〈あと〉こそが、出来事なのではないかと。わたしときみの〈あと〉への想像力。
バッドエンドのための海辺の小屋に来てなぜか照らされている金槌 木下龍也
写メでしか見てないけれどきみの犬はきみを残して死なないでほしい 岡野大嗣
(『かばん』2016年5月号)
井上ひさし『ひょっこりひょうたん島』(1991)。さいきんずっと井上ひさしの舞台をみていて思ったんですが、井上ひさしの劇では〈みんなで歌うこと〉というのは非常に大事に役割をもっています。ひょっこりひょうたん島でも例外なく味方も敵もぜんいんが歌うんですが、問題は、みんな実は〈死んでいる〉ということです。だから死んだ〈あと〉の話なんだけれど、その〈死〉を抑圧しているのが〈いきいきとした歌〉のように思うんですよね。ドン・ガバチョはあしたが駄目ならあさってにしましょ、あさってが駄目ならしあさってにしましょと歌うんだけれど、これはある意味、〈死〉を〈歌〉によってずっと遅延しているとも、いえる。そういう〈いきいきとした死〉は、『父と暮らせば』のような原爆で死んだ死者と共に死後をいきるとはどういうことかにもつながっていく。
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