【お知らせ】「〈わたし〉を呼びにゆく-ムーミン・江代充・佐藤みさ子-」『BLOG俳句新空間 第44号』
- 2016/06/10
- 12:06
『 BLOG俳句新空間 第44号』にて「〈わたし〉を呼びにゆく-ムーミン・江代充・佐藤みさ子-」という文章を載せていただきました。『BLOG俳句新空間』編集部にお礼申し上げます。ありがとうございました!
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
今回、江代充さんの詩や佐藤みさ子さんの川柳の〈わたし〉について考えながら、〈わたくし性〉の問題というのは〈文体〉の問題なんじゃないかとも思ったんです。〈文体〉っていうのは、つきつめていうと、〈助詞〉の問題です。
『MANO』(15号・2010年4月)という柳誌の「川柳における「私性」」という論考で樋口由紀子さんが書かれていることなんですが、たとえば川柳と俳句の違いについて考えたときに、
縄跳びをするぞともなかは嚇かされ 石田柊馬
三月の甘納豆のうふふふ 坪内稔典
こんなふうに樋口さんは石田さんの川柳と坪内さんの俳句を引用し、そのなかの助詞に注目するんです。「もなかは」の〈は〉と「甘納豆の」の〈の〉に。この「は」と「の」の助詞の強度の違い。ここに〈わたくし性〉の強度の違いをみている。
「は」っていうのは、たとえば、「あいつ〈は〉なんとかのやつだ」というように、語り手の位置性が濃く出てきますよね。これは「は」や「が」が語り手がどれくらい情報をもっているかで使い方が変わってくるからだと思うんです。
たとえば、桃太郎の書き出しがわかりやすいんですが、「あるところにおじいさん〈が〉すんでいました(新しい情報としてのおじいさん)。おじいさん〈は〉山へしばかりに行きました(もう知っている情報としてのおじいさん)。」というふうにです。「は」や「が」は態度の助詞です。
一方で「の」というのは記述の助詞なので語り手の態度が色濃くあらわれてこない助詞です。というよりも、語り手がどこにいようとするかを隠す「助詞」なのかもしれません。「ミッキーの帽子」というときに、これは情報の記述です。記述ですが、「ミッキーの帽子」を観察している語り手を隠してもいます。
こんなふうに助詞によって語り手がどれくらい〈それ〉と関わろうとするかが変わってきます。だから坪内さんの句も、「三月の甘納豆はうふふふ」にすると、だいぶ語り手が甘納豆に関わろうとする態度がみえてきます。
この助詞への関わり方から表現をみてみる方法。
たとえば今回とりあげた佐藤みさ子さんの句集タイトルは『呼びにゆく』ですが、そこには『(を)呼びにゆく』という潜在的な助詞が隠されています。つまりこれは『〈A〉が〈B〉を呼びにゆく』という引き裂かれた状態にある句集なんだとこの助詞「を」から直感で理解することができる。
たとえばこうした助詞のありかたからいろいろ考えることができると思うんです。小池正博さんの句集タイトルは『水牛の余波』から『転校生は蟻まみれ』に変わったけれど、その〈の〉から〈は〉への変遷をどうとらえるか。そうした助詞の大きな転位によって具体的な表現内容になにか変化はなかったか。木下龍也さんの歌集は『つむじ風、ここにあります』から『きみを嫌いな奴はクズだよ』へと変わったけれど、じゃあこのタイトルの変化からどんなことが考えられるのか。どちらも〈口語〉なので〈わたし〉が〈あなた〉に語りかけている態度をすでにあらわしているし、「に」から「は」に助詞が変わることで語り手の態度はもっと積極的・主体的になっています。その意味で、小池さんと木下さんの第二句集/第二歌集へのタイトルの助詞「は」への変遷による積極性は通底しています。
そういう文体、具体的には助詞の位相をさぐることによって、語り手がどんな場所に身をおいているかを理解することもできるんじゃないかとおもうんです。
以前、名古屋であったプロムナード現代短歌のシンポジウムで穂村弘さんが「それが虚構かどうかは文体が決める」というようなことをたしかおっしゃっていたんですが、そういう文体からの〈わたくし性〉の濃淡のようなものがあるのかなあとおもうんです。というよりも、もしかしたら、〈わたし〉というものは、〈助詞〉に宿る亡霊のようなものなんじゃないかと。
でも、山田消児さんも樋口由紀子さんも述べられていたことだけれど、〈わたし〉というものは考えれば考えるほどどんどん深みにはまっていきます。ただ一方で、深みにはまりつづけることが、〈わたし〉が〈わたし〉を考え続けるということ、この世界にとどまりつづけることでもあるのかなあと、思います。
何も考えなければあの世にたどりつく 佐藤みさ子
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