【感想】写メでしか見てないけれどきみの犬はきみを残して死なないでほしい 岡野大嗣
- 2016/06/11
- 00:46
写メでしか見てないけれどきみの犬はきみを残して死なないでほしい 岡野大嗣
(『かばん』2016年5月号)
【死にたいが、生きたい。】
岡野大嗣さんの歌集『サイレンと犀』の帯文に長谷川健一さんが「死にたいが、生きたい。」って書かれていて、岡野さんの短歌を読んでいるときにわいてくる気持ちとしてほんとにそうだなとおもったんですね。
わたしは上の歌のように岡野さんの短歌って〈祈り〉のかたちに近い感覚があるとおもうんです。長谷川さんのコピーにならうなら、〈死にたいが、生きたい〉とき、ひとはどうするかというとこれはもう〈祈る〉しかないんじゃないかとおもうんですよ。
岡野さんの歌ですごくインパクトがある歌に、
母と目が初めて合ったそのときの心でみんな死ねますように 岡野大嗣
っていう歌があるけれど、すごいなって思ったのは、〈生きますように〉じゃないんですね。語り手は、〈死〉ぬことを祈っている。しかも、〈わたし〉や〈あなた〉に対してでなく、「みんな」に対してです。
たとえばこれが〈わたし〉や〈あなた〉に限定されるのだったらそれは〈祈り〉じゃなくて個人的な〈願望=欲望〉になるんじゃないかとおもうんですよ。でも、語り手は、〈みんな〉に対しておもっている。個人個人の差異を乗り越えて、超越的に願望している。これって〈祈り〉のかたちだとおもうんですね。みんなしあわせになりますように、という。
〈祈り〉ってそういう超越的な願望のことなのかなって思うんです。たとえば、
写メでしか見てないけれどきみの犬はきみを残して死なないでほしい 岡野大嗣
「写メでしか見てない」のに、「きみを残して死なないでほしい」と生死に関わる願望をすること。
これも〈超越的〉な願望=祈りだとおもうんですね。
さっきの歌とおなじく、「写メ」のレベルと「死なないで」のレベルの差異が超越的に乗り越えられる。そのとき、ひとは、祈ってるんじゃないかとおもうんです。祈りだけが、差異を、乗り越える。
「写メでしか見てない」んだから、そんなことを言えないよ、というひとは、その時点で、祈ることができない。祈りは、そういう差異を凌駕して、それでもなお、祈ろうとする行為だから。「写メでしか見てない」けれど、ひとは祈るんですね。
〈死にたいが、生きたい。〉っていうのは、もしかしたら、いちばん短い祈りのかたちなのではないかとおもうんです。解釈不要な。それは、祈りとして、そのままなんです。ひとは祈ってるとき、そういうかたちを、そのままにとるしかない。「写メ」も「犬の死」も「母」も「きみ」も「わたし」もすべてを覆うようにして、みんなに向けて。「死にたいが、生きたい」と。祈るしかない。
前をゆく女のひとは鼻歌がきれいで赤ちゃんを抱いている 岡野大嗣
西村聡・藤田和日郎『アニメ うしおととら』(2015)。『うしおととら』って昔よく最終巻だけ取り出して読んで何度もそのたびに泣いていたんですが(アニメでもお腹に穴があいて瀕死のとらのところにまゆこが降りてきた時点で泣いていたんですが)、まゆこが瀕死のとらの髪をすいてあげるシーンがあるんですね。この髪をすいてあげる行為がとても大事だとおもうんです。とらに対してはみんなが戦い的なかかわり合いしかしていないのに、彼女だけはそれとは違ったかかわり合いかたをした。最終決戦のまっただなかで、です。で、わたしはそのときのとらとまゆこのふれ合いが感動的なのは、もうとらが〈戦って〉も〈戦わなくて〉もどちらでもいいレベルでまゆこがとらと関わろうとしたところにあるとおもうんですよ。そのとき、まゆこはそうした超越的なかかわり合いをとらにしてみせることで、とらへの祈りのかたちをとっている。それは彼女だけしかできないことだから、感動するんじゃないかとおもうんです。かつてキリスト教思想家の内村鑑三が「祈りは通じますか?」ときかれたときに、「祈っているうちに、通じても通じてなくてもどちらでもいい境地にいたります」って答えたそうなんだけれど、祈りのかたちってそういうものなんじゃないかとおもう。〈死にたいが、生きたい〉と。
(『かばん』2016年5月号)
【死にたいが、生きたい。】
岡野大嗣さんの歌集『サイレンと犀』の帯文に長谷川健一さんが「死にたいが、生きたい。」って書かれていて、岡野さんの短歌を読んでいるときにわいてくる気持ちとしてほんとにそうだなとおもったんですね。
わたしは上の歌のように岡野さんの短歌って〈祈り〉のかたちに近い感覚があるとおもうんです。長谷川さんのコピーにならうなら、〈死にたいが、生きたい〉とき、ひとはどうするかというとこれはもう〈祈る〉しかないんじゃないかとおもうんですよ。
岡野さんの歌ですごくインパクトがある歌に、
母と目が初めて合ったそのときの心でみんな死ねますように 岡野大嗣
っていう歌があるけれど、すごいなって思ったのは、〈生きますように〉じゃないんですね。語り手は、〈死〉ぬことを祈っている。しかも、〈わたし〉や〈あなた〉に対してでなく、「みんな」に対してです。
たとえばこれが〈わたし〉や〈あなた〉に限定されるのだったらそれは〈祈り〉じゃなくて個人的な〈願望=欲望〉になるんじゃないかとおもうんですよ。でも、語り手は、〈みんな〉に対しておもっている。個人個人の差異を乗り越えて、超越的に願望している。これって〈祈り〉のかたちだとおもうんですね。みんなしあわせになりますように、という。
〈祈り〉ってそういう超越的な願望のことなのかなって思うんです。たとえば、
写メでしか見てないけれどきみの犬はきみを残して死なないでほしい 岡野大嗣
「写メでしか見てない」のに、「きみを残して死なないでほしい」と生死に関わる願望をすること。
これも〈超越的〉な願望=祈りだとおもうんですね。
さっきの歌とおなじく、「写メ」のレベルと「死なないで」のレベルの差異が超越的に乗り越えられる。そのとき、ひとは、祈ってるんじゃないかとおもうんです。祈りだけが、差異を、乗り越える。
「写メでしか見てない」んだから、そんなことを言えないよ、というひとは、その時点で、祈ることができない。祈りは、そういう差異を凌駕して、それでもなお、祈ろうとする行為だから。「写メでしか見てない」けれど、ひとは祈るんですね。
〈死にたいが、生きたい。〉っていうのは、もしかしたら、いちばん短い祈りのかたちなのではないかとおもうんです。解釈不要な。それは、祈りとして、そのままなんです。ひとは祈ってるとき、そういうかたちを、そのままにとるしかない。「写メ」も「犬の死」も「母」も「きみ」も「わたし」もすべてを覆うようにして、みんなに向けて。「死にたいが、生きたい」と。祈るしかない。
前をゆく女のひとは鼻歌がきれいで赤ちゃんを抱いている 岡野大嗣
西村聡・藤田和日郎『アニメ うしおととら』(2015)。『うしおととら』って昔よく最終巻だけ取り出して読んで何度もそのたびに泣いていたんですが(アニメでもお腹に穴があいて瀕死のとらのところにまゆこが降りてきた時点で泣いていたんですが)、まゆこが瀕死のとらの髪をすいてあげるシーンがあるんですね。この髪をすいてあげる行為がとても大事だとおもうんです。とらに対してはみんなが戦い的なかかわり合いしかしていないのに、彼女だけはそれとは違ったかかわり合いかたをした。最終決戦のまっただなかで、です。で、わたしはそのときのとらとまゆこのふれ合いが感動的なのは、もうとらが〈戦って〉も〈戦わなくて〉もどちらでもいいレベルでまゆこがとらと関わろうとしたところにあるとおもうんですよ。そのとき、まゆこはそうした超越的なかかわり合いをとらにしてみせることで、とらへの祈りのかたちをとっている。それは彼女だけしかできないことだから、感動するんじゃないかとおもうんです。かつてキリスト教思想家の内村鑑三が「祈りは通じますか?」ときかれたときに、「祈っているうちに、通じても通じてなくてもどちらでもいい境地にいたります」って答えたそうなんだけれど、祈りのかたちってそういうものなんじゃないかとおもう。〈死にたいが、生きたい〉と。
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