【短歌】「部屋にあった…(東京新聞・東京歌壇2016年6月12日・東直子 特選)
- 2016/06/12
- 23:17
「部屋にあった眼鏡は捨てて呉れて、いい」冷えた銀河みたいな顔ね 柳本々々
(東京新聞・東京歌壇2016年6月12日・東直子 特選)
【東直子さんから頂いた選評】
眼鏡がないと視界がぼやける。焦点の合わない目のぼんやりとした顔。そんな表情を「冷えた銀河みたい」と喩えるのは、突飛なようで説得力がある。
【ノーティッシュ、ノーライフ】
『週刊俳句』にはじめて投稿した感想文「ノーティッシュ、ノーライフ」が丸山進さんの一句をめぐる文章だったんですね。
生きてればティッシュを呉れる人がいる 丸山進
この句をみたときにすごく凸凹(でこぼこ)しているなって思ったんです。たとえば「生きてれば」の「てれば」という詰まり方や「呉れる」という当て字的な漢字の使用に。
でもこの句が訴えている〈生の軌跡〉っていうのは実はその凸凹そのものなんじゃないかと思うんですね。
「生きて」ゆくと、つっかえるようなことはたくさん出てくる。でもその摩擦に応じて、そのときどきであなたに手をさしのべてくるひとはいるんだと。「ティッシュを呉れる人がいる」。その摩擦の熱量に応じてです。
この句はそういう〈生きること〉への信念がある句なんじゃないかと思ったんです。だからこの句の「呉れる」という漢字の使い方は必然なんだと。そこは熱量がなければならないからです。「くれる」とすっとゆくわけにはいかない。「生きていれば」なんて生がすっとゆくわけにもいかない。つっかえてつっかえて何度もつかえて「ティッシュを呉れる人」にたどりついていく。
そういう句や歌がもつ熱量=カロリーの問題ってあるのかなってときどき思うんです。
名前や物語っていうのは、ある意味、そのものそれ自体から熱量を奪ってしまう。たとえば「かわいそうなぞう」と名付けられることでなにかが失われてしまうかもしれない。なにかがすっと行ってしまうかもしれない。じゃあそのときそれでもつっかえるような熱量はどこにあるんだろう。象への想像力をめぐらすためには。たとえば、土。
「かわいそうなぞう」だった子の名を受けた「はな子」が探しつづけた土は 東直子
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:短歌
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短歌