【感想】木下闇せなかに触れるものは手か 近恵
- 2016/06/14
- 01:00
木下闇せなかに触れるものは手か 近恵
【たそがれはだれがつくるの】
『はがきハイク 女子回』(第14号・2016年6月)の近恵さんの「ぷくぷく」からの一句です。
木下闇(こしたやみ)って、樹林で出来た暗がりをいうんですが、面白いなって思うのは、ふだん自明なものが「闇」を通過することによって〈おののき〉あるものになってしまうということです。
考えてみると、「闇」のなかっていうのはほとんど薄暗がりで見えないわけだから、〈ふだんわかるもの〉がぎりぎりわかるわけです。ふだんよくわかっているものだからこそ、わかる。でも「闇」だから、わからない。そういう不思議な反転が起こっているのが闇です。だから、逆説的なんだけれど、「闇」のなかでは〈わかっているものほど・不思議なものになっていく〉。なぜなら、「闇」のなかでは、ふだんわからないものは、認識ができないからです。
だからこの近さんの句の「手か」の〈おののき〉って大きいと思うんですよ。ふだんこれだけよく知っているものを、〈見知りなおし〉たから。それは、re-learn というような、〈学びほぐす〉ことに近いきもするんです。ぜんぜん自分は今まで手を知らなかったと。知っていたようなつもりでいたんだけれど。それを「木下闇」というメディア=季語が教えてくれた。
だから季語の〈暗がり〉のなかではこんな〈おののき〉も起こってしまう。ふだんよく見知っているものが「片蔭」を通じてぜんぜん違う半ばSF的な位相をひきずりだしてしまう〈おののき〉。「マヨネーズの蓋」というみんなが知っている奇怪なもの。
片蔭のこれはマヨネーズの蓋か 荻原裕幸
(「世ハ事モ無シ」『週刊俳句 第369号』2014年5月
ウォン・カーウァイ『恋する惑星』(1994)。カーウァイ監督の映画ってカメラがいつも〈こそこそ〉していると思うんですね。ふつう映画ってここぞというときはアップで撮ったり、いちばんいいショットで撮ろうとしますよね。ところがカーウァイ監督の映画のまなざしってずっと〈蔭〉から人物たちをまなざしていくんですね。もっと言ってよければ、いちばん悪いショットであえて撮ろうとしてるようなんですよ。でもそのことによってわかってくるのは、わたしたちがふだん観ている映画はまなざしとしてその場に踏み込みすぎているんじゃないかっていうことなんです。どこからでも俯瞰して見渡し、どんな細かいものも見落とさない視線で映画をみている。でもカーウァイ映画のような半ば見落としつつ、よくみえない暗がりから人物たちをまなざす映画がある。まなざしがつくる空間生成によってこの映画の〈雰囲気〉ってつくられているようにおもうんです。しかし、いい映画。
【たそがれはだれがつくるの】
『はがきハイク 女子回』(第14号・2016年6月)の近恵さんの「ぷくぷく」からの一句です。
木下闇(こしたやみ)って、樹林で出来た暗がりをいうんですが、面白いなって思うのは、ふだん自明なものが「闇」を通過することによって〈おののき〉あるものになってしまうということです。
考えてみると、「闇」のなかっていうのはほとんど薄暗がりで見えないわけだから、〈ふだんわかるもの〉がぎりぎりわかるわけです。ふだんよくわかっているものだからこそ、わかる。でも「闇」だから、わからない。そういう不思議な反転が起こっているのが闇です。だから、逆説的なんだけれど、「闇」のなかでは〈わかっているものほど・不思議なものになっていく〉。なぜなら、「闇」のなかでは、ふだんわからないものは、認識ができないからです。
だからこの近さんの句の「手か」の〈おののき〉って大きいと思うんですよ。ふだんこれだけよく知っているものを、〈見知りなおし〉たから。それは、re-learn というような、〈学びほぐす〉ことに近いきもするんです。ぜんぜん自分は今まで手を知らなかったと。知っていたようなつもりでいたんだけれど。それを「木下闇」というメディア=季語が教えてくれた。
だから季語の〈暗がり〉のなかではこんな〈おののき〉も起こってしまう。ふだんよく見知っているものが「片蔭」を通じてぜんぜん違う半ばSF的な位相をひきずりだしてしまう〈おののき〉。「マヨネーズの蓋」というみんなが知っている奇怪なもの。
片蔭のこれはマヨネーズの蓋か 荻原裕幸
(「世ハ事モ無シ」『週刊俳句 第369号』2014年5月
ウォン・カーウァイ『恋する惑星』(1994)。カーウァイ監督の映画ってカメラがいつも〈こそこそ〉していると思うんですね。ふつう映画ってここぞというときはアップで撮ったり、いちばんいいショットで撮ろうとしますよね。ところがカーウァイ監督の映画のまなざしってずっと〈蔭〉から人物たちをまなざしていくんですね。もっと言ってよければ、いちばん悪いショットであえて撮ろうとしてるようなんですよ。でもそのことによってわかってくるのは、わたしたちがふだん観ている映画はまなざしとしてその場に踏み込みすぎているんじゃないかっていうことなんです。どこからでも俯瞰して見渡し、どんな細かいものも見落とさない視線で映画をみている。でもカーウァイ映画のような半ば見落としつつ、よくみえない暗がりから人物たちをまなざす映画がある。まなざしがつくる空間生成によってこの映画の〈雰囲気〉ってつくられているようにおもうんです。しかし、いい映画。
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