未来の僕たちのあとがき
- 2016/06/17
- 23:11
僕たちはこうした高野の読む行為の切実さにどこまで想像力を及ぼすことができるだろう。僕は、このような読みかたが適切であるとか、このような読みかたが栗林のこの句にとって幸福なことであるとか、そういうことをいいたいのではない。ただ僕は、このような高野の読む行為を高野と僕たちとがいずれ共有できなくなるであろうと予想される寂しい未来のとば口に立っているひとりとして、せめて今だけでも高野の読む行為に対して謙虚でありたいと思うのである。
外山一機「「復興」する日本で『小熊座』を読む」(BLOG俳句新空間・2015年3月20日)
よく行き詰まるたびに外山一機さんの時評を読んでいるんですね。なにかを見ようとすることによって見ようとしていない答え、言葉にすることによって言葉にできなかった雰囲気をさがすように。
ずっと読んできてふっと思ったのですが、外山さんの時評を通底している鍵語として〈さびしい未来〉というのがひとつあるのではないかと思ったんです。それは上に引用した文章で「寂しい未来」にゆきあたったとき、あっとおもったんですね。
〈さびしい未来〉というと何かネガティヴな感じを受けるかもしれないけれど、そうではなくて、〈さびしい未来〉をどうひきうけていくのか、という〈さびしさへの練習〉が外山さんの時評の一角であるように思うんですよ。
〈さびしい未来〉を描くことではなく、どう〈さびしい未来〉をうけとめるかという問題です。そしてどううけとめそこねていくのかをきちんと言葉にできるかどうかの問題。
この〈さびしさへの練習〉と関わってくるのが上にあげた文章もそうなんですが、外山さんが時評で意識的に使う主語〈僕たち〉だと思うんです。
なぜそれが〈われわれ〉ではないのか。
それは〈僕たち〉という主語を〈いま〉あえて使うことこそ〈未来のさびしさ〉でもあるからだと思うんですね。
時評として今とこれからを語ろうとするときに〈われわれ〉として突き放して語ることができる〈時空間〉なんてもはやどこにもないんだ。わたしたちは局所的な〈僕〉として、それでも祈りとしてはどこかでつながれる〈僕たち〉という最後のチャンスをうかがいながら言葉をつむいでいくしかないんだという半ば祈りのかたちの主語。そしてそれは祈りだけでなく、自分の立場をさらけだすかたちとしての〈僕〉。
外山さんの時評は、〈俳句の〉時評である前に、こうした〈僕たちの所在〉をかんがえる〈僕たちの〉時評であったようにおもうんです。そして時評とはそうした自分をさらけだしながら、〈未来はさびしい〉と敗退することによってはじめて成立するものではないかとも思ったりしたのです。
時評ははじめから負け戦なのだけれど、でも負ける過程(プロセス)のなかでしか、みえてこないものがある。そんなふうに感じたんです。時評ってなんなんだろうと思いながら。
むしろ彼らが「書かなくてよいもの」として捨て去ったものへと目を向けることで、その営為の本質が見えてくるということはないだろうか。
外山一機「その時、何を書かなかったか」(詩客・2011年7月8日)
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