【希望の川柳 十日目】希望のラジオ-石部明-
- 2016/06/30
- 08:07
ラジオより流れる呪文死になさい 石部明
ポケベルのように滅びるオールドメディアもあれば、ラジオのように機能と位置づけを変えつつ残り続けるメディアもあります。
(石岡良治『視覚文化「超」講義』)
【霊と機械】
石岡さんの指摘で、あそうか、と思ったんですが、なぜラジオが霊性のメディアに感じられるのかというと、たぶんそれはメディアとしてずっと〈生き残っている〉ところがあるからなんじゃないかと思うんですよ。
たとえばレコード、カセットテープ、VHS、PHS、ポケベル、ワープロなど代替されていくメディアが多いなかでなぜかラジオだけはほとんどその〈器〉のかたちを変えず生き残っている。
こないだラジオ深夜便で空襲警報を聞いていたんですが、ラジオってどうあってもなかなか〈クリア〉にはならないので、当時のノイズよりもクリアになっているのはもちろんだとしても、それでも現在の具ぬぐいきれない〈ノイズ〉の部分でどこか戦中と共振するような身体感覚があるなっておもったんです。
考えてみると、ほとんどのメディアがノイズを完全にシャットアウトしていくなかで、ラジオってザーザーというノイズを温存させながら生き残ってきた不思議なメディアだと思うんですね。しかもいまだにアナログ的というか、ある種、闇のなかでてさぐりしながら今なにが放送されているのかを聴取しているところもある。
そういう部分にラジオの呪術性はあるのかもしれないなって思ったんです。そのときに思い出したのが石部さんの句で、「死になさい」ってすごくインパクトありますよね。でも少しわかったような気がしたのは、「ラジオ」から「死になさい」と流れてくることによって、それは不思議な〈死ねなさ〉みたいなものにつながっていくんじゃないかということです。呪文を唱えるラジオというメディアはずっと生き延びてきた。それはそのラジオというメディアを通して発信するひとと享受するひとのメディアのオーディエンスがずっと生き延びてきた歴史です。
そういう亡霊化したメディアが発した言葉「死になさい」というのはむしろ〈死ねなさ〉としての発話なんじゃないかと思ったんです。「死になさい」と霊的メディアがいうとき、その霊的メディアそのものの不死性をおもう。あなたは死を知らないじゃないか、と。そのとき同時にラジオを享受してきたわたしたちも死を知らなかったんじゃないかと気がついてしまう。だから、ラジオは、「死になさい」と唱え続ける〈希望のラジオ〉でもある。
よろめいてまた銀河より死者ひとり 石部明
コッポラ『カンバセーション…盗聴…』(1974)。デジタルメディアを通した〈声〉ってたぶん〈いっかい死んだことば〉だと思うんですね。声の所有性や主体性が剥奪されるから。で、そうした霊的デバイスとしての録音装置を〈盗聴〉をとおして描いている。ジーン・ハックマンはどんどんその霊的な声に追い詰められてどこにも行けなくなっていく。でも録音装置の問題点は死んだ声なのに〈いきいき〉しているということです。しかも反復可能でもある。だとしたらそういう〈声〉に与えられる〈場所〉はどこにあるのか、その声に取り込まれてしまった人間は〈どこ〉にいくのか。
ポケベルのように滅びるオールドメディアもあれば、ラジオのように機能と位置づけを変えつつ残り続けるメディアもあります。
(石岡良治『視覚文化「超」講義』)
【霊と機械】
石岡さんの指摘で、あそうか、と思ったんですが、なぜラジオが霊性のメディアに感じられるのかというと、たぶんそれはメディアとしてずっと〈生き残っている〉ところがあるからなんじゃないかと思うんですよ。
たとえばレコード、カセットテープ、VHS、PHS、ポケベル、ワープロなど代替されていくメディアが多いなかでなぜかラジオだけはほとんどその〈器〉のかたちを変えず生き残っている。
こないだラジオ深夜便で空襲警報を聞いていたんですが、ラジオってどうあってもなかなか〈クリア〉にはならないので、当時のノイズよりもクリアになっているのはもちろんだとしても、それでも現在の具ぬぐいきれない〈ノイズ〉の部分でどこか戦中と共振するような身体感覚があるなっておもったんです。
考えてみると、ほとんどのメディアがノイズを完全にシャットアウトしていくなかで、ラジオってザーザーというノイズを温存させながら生き残ってきた不思議なメディアだと思うんですね。しかもいまだにアナログ的というか、ある種、闇のなかでてさぐりしながら今なにが放送されているのかを聴取しているところもある。
そういう部分にラジオの呪術性はあるのかもしれないなって思ったんです。そのときに思い出したのが石部さんの句で、「死になさい」ってすごくインパクトありますよね。でも少しわかったような気がしたのは、「ラジオ」から「死になさい」と流れてくることによって、それは不思議な〈死ねなさ〉みたいなものにつながっていくんじゃないかということです。呪文を唱えるラジオというメディアはずっと生き延びてきた。それはそのラジオというメディアを通して発信するひとと享受するひとのメディアのオーディエンスがずっと生き延びてきた歴史です。
そういう亡霊化したメディアが発した言葉「死になさい」というのはむしろ〈死ねなさ〉としての発話なんじゃないかと思ったんです。「死になさい」と霊的メディアがいうとき、その霊的メディアそのものの不死性をおもう。あなたは死を知らないじゃないか、と。そのとき同時にラジオを享受してきたわたしたちも死を知らなかったんじゃないかと気がついてしまう。だから、ラジオは、「死になさい」と唱え続ける〈希望のラジオ〉でもある。
よろめいてまた銀河より死者ひとり 石部明
コッポラ『カンバセーション…盗聴…』(1974)。デジタルメディアを通した〈声〉ってたぶん〈いっかい死んだことば〉だと思うんですね。声の所有性や主体性が剥奪されるから。で、そうした霊的デバイスとしての録音装置を〈盗聴〉をとおして描いている。ジーン・ハックマンはどんどんその霊的な声に追い詰められてどこにも行けなくなっていく。でも録音装置の問題点は死んだ声なのに〈いきいき〉しているということです。しかも反復可能でもある。だとしたらそういう〈声〉に与えられる〈場所〉はどこにあるのか、その声に取り込まれてしまった人間は〈どこ〉にいくのか。
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