【お知らせ】「【短詩時評 二十二鬼夜行】現代妖怪川柳の宴-鬼、河童、巨眼、コロボックル、妖精、悪魔一家、その他妖怪の皆さん-」『BLOG俳句新空間 第46号』
- 2016/07/08
- 10:54
『BLOG俳句新空間 第46号』にて「【短詩時評 二十二鬼夜行】現代妖怪川柳の宴-鬼、河童、巨眼、コロボックル、妖精、悪魔一家、その他妖怪の皆さん-」という文章を載せていただきました。お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
昔から気になっていたことがあるんです。時代や文化を超えて、その手のものを全部ひっくるめて「妖怪」と呼んじゃうことですね。例えば、「平安時代の妖怪」みたいな言い方を耳にします。平安時代に、怪しいことがありました、不思議なことがありました、怨霊に対する信仰がありましたと言うのはいいんだけど、その時代「妖怪」という概念はまだない。だから「平安時代の妖怪画」なんて言い方には一時期ものすごく抵抗があった
京極夏彦「妖怪たちのいるところ 水木しげる以降の文化のゆくえ」『ユリイカ』2016・7
水木しげる作品のヒットとともに、「キャラとしての妖怪」が現在の私たちの一般的な妖怪理解となってしまった。昭和40年代に起きたこの妖怪観の転換を、清水潤は「昭和の妖怪革命」と名付けた。私たちの現在の「妖怪」観は、たかだか昭和の産物なのである。
飯倉義之『ユリイカ』2016・7
今回の時評ではかなり妖怪の概念を幅広く取ったために、UFOやゴジラは妖怪じゃないだろうと怒られると思うんですが、今回の『ユリイカ』の妖怪特集を読んでいると妖怪をめぐる定義が非常に大事なことがわかります。
そもそも現在のようななんでもありの〈妖怪観〉、キャラクター化する妖怪というのは水木しげるがフォーマットをつくったものだと指摘されています。そういえば、わたしは妖怪の朱の盤(しゅのぼん)が好きなんですが、あの妖怪も水木しげるがはじめて図像を与えた。で、図像を与えるというのはどういうことかというと、よく京極堂も関口くんに言っていたと思いますが、妖怪を殺すことなんですね。生かすことではなく。口承としてずっとたゆたいながら、さまざまなイメージを包括していた妖怪は図像と名前と設定を与えられることで死んでしまう。そしてそのことそのものによって〈妖怪〉じたいも死んでしまう。
京極堂はよく〈イライラ〉しているようにみえますが、たぶん〈イライラ〉しているのは、語りによってどんどん妖怪が殺されていくことに対してじゃないかとおもうんです(というよりも、京極堂シリーズの基本的構造が語りによって概念が殺されたために現世で迷うことになってしまったひとびとの話です。語ることは殺すことなわけです)。
だとしたら、わたしたちが語ることによってどういう力を発動させてしまうのか、なにが整備され、抑圧され、抹消され、《取り違え》られてしまうのか。そういうことをメディアをとおしてときどき考えてみたいなっておもいます。
そういえば鬼太郎には妖怪ポストってありましたよね。あのポストはどこかで人間と妖怪の差延をもたらずはずで、その意味でもやっぱり妖怪はデリダ的=郵便的=メディア的な存在なのかなあっておもいます。
昔から気になっていたことがあるんです。時代や文化を超えて、その手のものを全部ひっくるめて「妖怪」と呼んじゃうことですね。例えば、「平安時代の妖怪」みたいな言い方を耳にします。平安時代に、怪しいことがありました、不思議なことがありました、怨霊に対する信仰がありましたと言うのはいいんだけど、その時代「妖怪」という概念はまだない。だから「平安時代の妖怪画」なんて言い方には一時期ものすごく抵抗があった
京極夏彦「妖怪たちのいるところ 水木しげる以降の文化のゆくえ」『ユリイカ』2016・7
水木しげる作品のヒットとともに、「キャラとしての妖怪」が現在の私たちの一般的な妖怪理解となってしまった。昭和40年代に起きたこの妖怪観の転換を、清水潤は「昭和の妖怪革命」と名付けた。私たちの現在の「妖怪」観は、たかだか昭和の産物なのである。
飯倉義之『ユリイカ』2016・7
今回の時評ではかなり妖怪の概念を幅広く取ったために、UFOやゴジラは妖怪じゃないだろうと怒られると思うんですが、今回の『ユリイカ』の妖怪特集を読んでいると妖怪をめぐる定義が非常に大事なことがわかります。
そもそも現在のようななんでもありの〈妖怪観〉、キャラクター化する妖怪というのは水木しげるがフォーマットをつくったものだと指摘されています。そういえば、わたしは妖怪の朱の盤(しゅのぼん)が好きなんですが、あの妖怪も水木しげるがはじめて図像を与えた。で、図像を与えるというのはどういうことかというと、よく京極堂も関口くんに言っていたと思いますが、妖怪を殺すことなんですね。生かすことではなく。口承としてずっとたゆたいながら、さまざまなイメージを包括していた妖怪は図像と名前と設定を与えられることで死んでしまう。そしてそのことそのものによって〈妖怪〉じたいも死んでしまう。
京極堂はよく〈イライラ〉しているようにみえますが、たぶん〈イライラ〉しているのは、語りによってどんどん妖怪が殺されていくことに対してじゃないかとおもうんです(というよりも、京極堂シリーズの基本的構造が語りによって概念が殺されたために現世で迷うことになってしまったひとびとの話です。語ることは殺すことなわけです)。
だとしたら、わたしたちが語ることによってどういう力を発動させてしまうのか、なにが整備され、抑圧され、抹消され、《取り違え》られてしまうのか。そういうことをメディアをとおしてときどき考えてみたいなっておもいます。
そういえば鬼太郎には妖怪ポストってありましたよね。あのポストはどこかで人間と妖怪の差延をもたらずはずで、その意味でもやっぱり妖怪はデリダ的=郵便的=メディア的な存在なのかなあっておもいます。
水木妖怪図鑑においては、江戸期の出版文化によって登場した化け物や、民俗学で採集された妖怪など、様々な位相における怪しきものたちが横一列に並べられ、そこにオリジナルのキャラクターも挟み込まれている。前近代の「化け物」と近代以降の「妖怪」とを同列に配置する手法は、水木による一種の「発明」であった。
今井秀和『ユリイカ』2016・7
今井秀和『ユリイカ』2016・7
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