【希望の川柳 十二日目】希望のこと、めりめりのこと-くんじろう-
- 2016/07/15
- 00:06
めりめりを探し続けて三千里 くんじろう
【いっしょにさがそう、めりめり】
『川柳北田辺』63号からくんじろうさんの一句です。
これは俳句と比較してそう言われることでもあるのかもしれないけれど、川柳とは人間を描くものである、という規定があるんですね。
で、そうなんだろう、とも思うんだけれど、一方で、むしろまったく逆なんじゃないか、できるだけ〈人間〉を描かないように苦心してきたのが川柳なんじゃないかと思うんですね。
アンチ・ヒューマニズムというとけっきょく〈人間観〉を前提とした言い方になっちゃうのであんまりいい言い方ではないんだけれど、でも、川柳はヒューマニズムじゃない場所を苦労して描いていっているような気もさいきんとても強くするんですね。いや、そう考えると、どうして川柳に動物や食べ物がいっぱい出てくるのかも納得がいくんですよね。川柳には動物らしくない動物や食べられない食べ物がたくさん出てくるんだけれど、それは動物や食べ物を描くためではなくて、人間を回避=忌避するからだと考えると納得がいく。
で、くんじろうさんのたとえばこの句にしても「母」ではなく「めりめり」を探している。「母」を探すという巨大なヒューマニズムが「めりめり」によってスルーされてしまう。「めりめり」を探す行為ってドラマを失効させることだと思うんですよ。だって三千里旅してやっと見つかるのが「めりめり」なんですよ。そこにはドラマはない。でもドラマがない場所としてなにかがここにはあるはずなんだ。だって「母」を探そうとするひとはいたかもしれないけれど、「めりめり」を探そうとするひとはいなかったはずだから。
こうした人間の忌避っていうテーマがひとつ現代川柳にはあると思ったんです。思ったんだけれどもでもその一方で川柳は人間を描くことになっている。こうあした川柳の〈引き裂かれた〉ありようってちょっと不思議だなって思うんですよね。つまり、川柳というジャンルそのものが〈めりめり〉しているんです。だとしたら、くんじろうさんが探しているのって川柳というジャンルそのものなんじゃないかっておもったんです。
この「めりめり」は川柳のことなんじゃないか。
今、川柳は正念場かも知れない。だとすれば、ますます肩の力を抜かなければならない。平常心でなければならない。 くんじろう『川柳北田辺61』
ティム・バートン『エド・ウッド』(1994)。『エド・ウッド』ってけっこう昔から定期的に何回もみてるんですね。で、私はこの映画の素晴らしいシーンはオーソン・ウェルズが出てくるところだと思ってたんですよ。映画づくりはたいへんなんだよ、でもめげちゃだめだってエド・ウッドにいうシーンですね。でもさいきん観直してそれはぜんぜん違った。そんなシーンはどうでもよかったことに気がついたんです。この映画の素晴らしいシーンはエド・ウッドがお化け屋敷でデートするシーンなんですよね。で、そのときエド・ウッドはたぶんこの映画でいちばん最高の笑顔をしている。それはただ単にB級臭のぼろいギミックのお化け屋敷に無上の幸福感を感じているからなんです。デートがうれしいわけでも、真正さがうれしいわけでもない。そういうぼろいギミックとしての幽霊文化が好きなんですよね。無心に。で、それってティム・バートン映画のコンセプトだと思ったんですよ。誰に嫌われても憎まれてもぼろいギミックが好きだしやめられない。それに触れているだけで幸福なんだっていう。ただそれだけの映画があってもいいじゃないですか。ってそんな気がしたんですよ。なんだかしあわせになりながら。
【いっしょにさがそう、めりめり】
『川柳北田辺』63号からくんじろうさんの一句です。
これは俳句と比較してそう言われることでもあるのかもしれないけれど、川柳とは人間を描くものである、という規定があるんですね。
で、そうなんだろう、とも思うんだけれど、一方で、むしろまったく逆なんじゃないか、できるだけ〈人間〉を描かないように苦心してきたのが川柳なんじゃないかと思うんですね。
アンチ・ヒューマニズムというとけっきょく〈人間観〉を前提とした言い方になっちゃうのであんまりいい言い方ではないんだけれど、でも、川柳はヒューマニズムじゃない場所を苦労して描いていっているような気もさいきんとても強くするんですね。いや、そう考えると、どうして川柳に動物や食べ物がいっぱい出てくるのかも納得がいくんですよね。川柳には動物らしくない動物や食べられない食べ物がたくさん出てくるんだけれど、それは動物や食べ物を描くためではなくて、人間を回避=忌避するからだと考えると納得がいく。
で、くんじろうさんのたとえばこの句にしても「母」ではなく「めりめり」を探している。「母」を探すという巨大なヒューマニズムが「めりめり」によってスルーされてしまう。「めりめり」を探す行為ってドラマを失効させることだと思うんですよ。だって三千里旅してやっと見つかるのが「めりめり」なんですよ。そこにはドラマはない。でもドラマがない場所としてなにかがここにはあるはずなんだ。だって「母」を探そうとするひとはいたかもしれないけれど、「めりめり」を探そうとするひとはいなかったはずだから。
こうした人間の忌避っていうテーマがひとつ現代川柳にはあると思ったんです。思ったんだけれどもでもその一方で川柳は人間を描くことになっている。こうあした川柳の〈引き裂かれた〉ありようってちょっと不思議だなって思うんですよね。つまり、川柳というジャンルそのものが〈めりめり〉しているんです。だとしたら、くんじろうさんが探しているのって川柳というジャンルそのものなんじゃないかっておもったんです。
この「めりめり」は川柳のことなんじゃないか。
今、川柳は正念場かも知れない。だとすれば、ますます肩の力を抜かなければならない。平常心でなければならない。 くんじろう『川柳北田辺61』
ティム・バートン『エド・ウッド』(1994)。『エド・ウッド』ってけっこう昔から定期的に何回もみてるんですね。で、私はこの映画の素晴らしいシーンはオーソン・ウェルズが出てくるところだと思ってたんですよ。映画づくりはたいへんなんだよ、でもめげちゃだめだってエド・ウッドにいうシーンですね。でもさいきん観直してそれはぜんぜん違った。そんなシーンはどうでもよかったことに気がついたんです。この映画の素晴らしいシーンはエド・ウッドがお化け屋敷でデートするシーンなんですよね。で、そのときエド・ウッドはたぶんこの映画でいちばん最高の笑顔をしている。それはただ単にB級臭のぼろいギミックのお化け屋敷に無上の幸福感を感じているからなんです。デートがうれしいわけでも、真正さがうれしいわけでもない。そういうぼろいギミックとしての幽霊文化が好きなんですよね。無心に。で、それってティム・バートン映画のコンセプトだと思ったんですよ。誰に嫌われても憎まれてもぼろいギミックが好きだしやめられない。それに触れているだけで幸福なんだっていう。ただそれだけの映画があってもいいじゃないですか。ってそんな気がしたんですよ。なんだかしあわせになりながら。
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