【感想】一人称単数として滝の前 小久保佳世子
- 2016/07/26
- 23:15
一人称単数として滝の前 小久保佳世子
【スローな過剰】
俳句における〈滝〉っておもしろいんですよね。で、俳句をとおして〈滝〉をみたときおもしろいなと思ったのが、滝がスローになるんですね。俳句においては滝をみることが滝の時間をどんどん微分していくらしい。滝はスローになっていく。〈見ること〉が〈スロー〉にさせる。だから、最終的には、アキレスと亀みたいに滝は〈どんどん落ちることができなくなっていく〉。落ちられない滝。それが俳句におけるひとつの滝だと思うんです。
たとえば、
滝壺に滝活けてある眺めかな 中原道夫
花みたいに滝壺に滝が活けてあるんだけれど、この滝は壷に立っているから、ベクトルや時間が逆流している。スローどころか、まったく倒錯している滝。
〈みること〉っていうのが〈過剰性〉としてあらわれてる。写生と過剰性の関係。みることっていうのはそのままをみるというよりも、対象に過剰性を与えること。それが〈滝〉という季語=メディアを通してあらわれているようにおもう。
で、小久保さんの句なんですが、「一人称単数」っていうのは主語の倒錯なんじゃないかと思ったんですよ。主語の過剰性というか。「わたし」という主語を「滝」を通して文法としてさかのぼっていった。文法的過剰性を〈わたし〉に与えた。その結果、「一人称単数」があらわれた。もちろんそこには「滝の前にこのわたしが〈わたし〉と発話することになんの意味もないよね」というものがあるかもしれないけれど、それよりもここにあらわれているのは文法的な過剰性なんじゃないかとおもうんです。
不思議な話なんですが、滝をスローにみる視線が、エネルギーを奪っていく視線が、ぎゃくに過剰なエネルギーとして発露していく。そういうものとして滝というのがあるのではないか。或いは、御中虫さんの滝。
朝の滝さあ落ちやうぜ出発だ 御中虫
細田守『バケモノの子』(2015)。この映画のタイトルってダブルミーニングで、主人公が「ばけものの子」だと思ってたら、そうではなくて、もうひとり「ばけものの子」としてコンプレックスを感じていた子がいたっていう。そういうコンプレックスがうまく発露できる子とできなかった子の話なんですよ。で、たぶんなんだけれど、うまく発露できた子は肯定してくれるガールフレンドがいて、発露できなかった子は肯定してくれるガールフレンドがいなかったっていうそういう映画のように思ったんですね。つまりひとが〈ばけもの〉になるかどうかは、一緒に無条件でいてくれるガールフレンドがいるかどうかだと。で、もし細田守さんの映画を観ていて、なにか自分が〈疎外されている感覚〉を感じたらここにあるんじゃないかと思うんです。あれっ、俺もしかして最終的にばけもの鯨みたいに肥大化したコンプレックスとして〈対処される方なんじゃないか〉っていう。主人公の側にいけないんじゃないか。〈過剰性〉が彼女がいるかどうかみたいな話になっているんじゃないかと。でもその一方で細田アニメの〈老人〉の描き方って非常に面白いなって思うんですよね。老人になると達観している一方で、俗世間で生きるいきいきした部分があって、そういうのを描くときにすごく細田アニメはいきいきしている。で、あっ、そうか『時をかける少女』にも老人がいたじゃないか、未来からやってきたかれは象徴的な〈老人〉だったじゃないかとおもったのです。
【スローな過剰】
俳句における〈滝〉っておもしろいんですよね。で、俳句をとおして〈滝〉をみたときおもしろいなと思ったのが、滝がスローになるんですね。俳句においては滝をみることが滝の時間をどんどん微分していくらしい。滝はスローになっていく。〈見ること〉が〈スロー〉にさせる。だから、最終的には、アキレスと亀みたいに滝は〈どんどん落ちることができなくなっていく〉。落ちられない滝。それが俳句におけるひとつの滝だと思うんです。
たとえば、
滝壺に滝活けてある眺めかな 中原道夫
花みたいに滝壺に滝が活けてあるんだけれど、この滝は壷に立っているから、ベクトルや時間が逆流している。スローどころか、まったく倒錯している滝。
〈みること〉っていうのが〈過剰性〉としてあらわれてる。写生と過剰性の関係。みることっていうのはそのままをみるというよりも、対象に過剰性を与えること。それが〈滝〉という季語=メディアを通してあらわれているようにおもう。
で、小久保さんの句なんですが、「一人称単数」っていうのは主語の倒錯なんじゃないかと思ったんですよ。主語の過剰性というか。「わたし」という主語を「滝」を通して文法としてさかのぼっていった。文法的過剰性を〈わたし〉に与えた。その結果、「一人称単数」があらわれた。もちろんそこには「滝の前にこのわたしが〈わたし〉と発話することになんの意味もないよね」というものがあるかもしれないけれど、それよりもここにあらわれているのは文法的な過剰性なんじゃないかとおもうんです。
不思議な話なんですが、滝をスローにみる視線が、エネルギーを奪っていく視線が、ぎゃくに過剰なエネルギーとして発露していく。そういうものとして滝というのがあるのではないか。或いは、御中虫さんの滝。
朝の滝さあ落ちやうぜ出発だ 御中虫
細田守『バケモノの子』(2015)。この映画のタイトルってダブルミーニングで、主人公が「ばけものの子」だと思ってたら、そうではなくて、もうひとり「ばけものの子」としてコンプレックスを感じていた子がいたっていう。そういうコンプレックスがうまく発露できる子とできなかった子の話なんですよ。で、たぶんなんだけれど、うまく発露できた子は肯定してくれるガールフレンドがいて、発露できなかった子は肯定してくれるガールフレンドがいなかったっていうそういう映画のように思ったんですね。つまりひとが〈ばけもの〉になるかどうかは、一緒に無条件でいてくれるガールフレンドがいるかどうかだと。で、もし細田守さんの映画を観ていて、なにか自分が〈疎外されている感覚〉を感じたらここにあるんじゃないかと思うんです。あれっ、俺もしかして最終的にばけもの鯨みたいに肥大化したコンプレックスとして〈対処される方なんじゃないか〉っていう。主人公の側にいけないんじゃないか。〈過剰性〉が彼女がいるかどうかみたいな話になっているんじゃないかと。でもその一方で細田アニメの〈老人〉の描き方って非常に面白いなって思うんですよね。老人になると達観している一方で、俗世間で生きるいきいきした部分があって、そういうのを描くときにすごく細田アニメはいきいきしている。で、あっ、そうか『時をかける少女』にも老人がいたじゃないか、未来からやってきたかれは象徴的な〈老人〉だったじゃないかとおもったのです。
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