【感想】3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系
- 2016/07/27
- 01:45
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系
僕は、ときどき、自分が乗っている電車が僕をどこか間違った行き先へ連れて行ってしまうんじゃないかと不安に思うことがある。
(福田若之「〔ためしがき〕不安」『ウラハイ』)
【3番線でいったいどこに行けるのか】
なんでこの歌は1番線や2番線や5番線や6番線を選ばないで「3番線」だったんだろうってときどき思うんですね。
なんでだろう。たぶんなんだけれど、5番線や6番線って遠いんですよね。遠すぎる。それは〈わたしたち〉の話にならない。〈個人的〉な話になっちゃうとおもうんです。理解できる、できないが、〈個人〉の枠組みになっちゃう。
じゃあ、1番線や2番線がいいんじゃないか。とくに2番線なんて5音でとてもいいじゃないですか。でもたぶんなんだけれど、1番と2番は向かいあっていてひとつのホームになっている。最初のホームですよね。たぶん、最初のホームだと〈だめ〉だったとおもうんですよ。なんでかというと、〈恣意的〉に思えるから。断念した選択肢の含みが少なすぎて、このひとはどの番線に乗ってもいいひとだったんじゃないのとおもえるから。「3」っていう数字は、1も2も含むじゃないですか。含んで、そのうえで、1も2もあきらめて「3番線」を選ぶことに意味がある。それが語り手の〈避けようのない〉生活だからです。それに乗らないと生活ができない。家に帰れない。仕事場に行けない。1でも2でもない。1、2の選択肢はあっても、それをさけて、3番線に乗ること。しかし、4でも5でもない。そんなに遠くにいくつもりもないし、《そんなに選択肢がある生活をしているわけでもない》。
いま、書きながら考えては、考えながら書いたのですが、こんなふうに考えて書いてみると、「3番線」って絶妙だなっておもうんですね。
JRが国鉄だった頃は、駅長室から近い順に1番線、2番線、3番線とつけていったそうです。
だからまあもし3番線で死ぬとしたら、駅長からちょっと離れたところで死ぬことになるんですよ。駅長を電車の〈父親的なもの〉だとするなら、そういうものから少し離れた場所でしぬことになる。もっと言えば、だれにもしられず、父親が管轄できないシステムのすこし外でしぬことになる。父親は意味を与えるものですから、意味も与えられずに、です。「三番線」はその意味で、〈父なる領域〉から少しはずれたところにある。意味のすこしだけ彼岸に。
涅槃図へ地下のA6出口より 小久保佳世子
本多猪四郎/円谷英二『モスラ対ゴジラ』(1964)。ゴジラって総じて「理解できないひとは下がって」の映画だと思うんですよ。必ず市井のひとびとの逃げるシーンが入るけれど、みんなわけもわからず一所懸命逃げてる。ゴジラなんて理解できないからただ下がるしかない(ゴジラを倒すひとたちは理解しようとするけれど完全な理解にはいかない)。でも理解できないことってずっと実は日常に埋め込まれていて、毎日起こってる。もちろん卒業論文とか持ち出したり、近所のひとの〈証言〉やツイッターやフェイスブックでわかったような気になったりはしても、でも、たぶん、理解できない。フランスでもドイツでも理解できないひとは下がるしかない出来事が起こっている。「理解できないひとは下がって」が全体化しているような気がする。
僕は、ときどき、自分が乗っている電車が僕をどこか間違った行き先へ連れて行ってしまうんじゃないかと不安に思うことがある。
(福田若之「〔ためしがき〕不安」『ウラハイ』)
【3番線でいったいどこに行けるのか】
なんでこの歌は1番線や2番線や5番線や6番線を選ばないで「3番線」だったんだろうってときどき思うんですね。
なんでだろう。たぶんなんだけれど、5番線や6番線って遠いんですよね。遠すぎる。それは〈わたしたち〉の話にならない。〈個人的〉な話になっちゃうとおもうんです。理解できる、できないが、〈個人〉の枠組みになっちゃう。
じゃあ、1番線や2番線がいいんじゃないか。とくに2番線なんて5音でとてもいいじゃないですか。でもたぶんなんだけれど、1番と2番は向かいあっていてひとつのホームになっている。最初のホームですよね。たぶん、最初のホームだと〈だめ〉だったとおもうんですよ。なんでかというと、〈恣意的〉に思えるから。断念した選択肢の含みが少なすぎて、このひとはどの番線に乗ってもいいひとだったんじゃないのとおもえるから。「3」っていう数字は、1も2も含むじゃないですか。含んで、そのうえで、1も2もあきらめて「3番線」を選ぶことに意味がある。それが語り手の〈避けようのない〉生活だからです。それに乗らないと生活ができない。家に帰れない。仕事場に行けない。1でも2でもない。1、2の選択肢はあっても、それをさけて、3番線に乗ること。しかし、4でも5でもない。そんなに遠くにいくつもりもないし、《そんなに選択肢がある生活をしているわけでもない》。
いま、書きながら考えては、考えながら書いたのですが、こんなふうに考えて書いてみると、「3番線」って絶妙だなっておもうんですね。
JRが国鉄だった頃は、駅長室から近い順に1番線、2番線、3番線とつけていったそうです。
だからまあもし3番線で死ぬとしたら、駅長からちょっと離れたところで死ぬことになるんですよ。駅長を電車の〈父親的なもの〉だとするなら、そういうものから少し離れた場所でしぬことになる。もっと言えば、だれにもしられず、父親が管轄できないシステムのすこし外でしぬことになる。父親は意味を与えるものですから、意味も与えられずに、です。「三番線」はその意味で、〈父なる領域〉から少しはずれたところにある。意味のすこしだけ彼岸に。
涅槃図へ地下のA6出口より 小久保佳世子
本多猪四郎/円谷英二『モスラ対ゴジラ』(1964)。ゴジラって総じて「理解できないひとは下がって」の映画だと思うんですよ。必ず市井のひとびとの逃げるシーンが入るけれど、みんなわけもわからず一所懸命逃げてる。ゴジラなんて理解できないからただ下がるしかない(ゴジラを倒すひとたちは理解しようとするけれど完全な理解にはいかない)。でも理解できないことってずっと実は日常に埋め込まれていて、毎日起こってる。もちろん卒業論文とか持ち出したり、近所のひとの〈証言〉やツイッターやフェイスブックでわかったような気になったりはしても、でも、たぶん、理解できない。フランスでもドイツでも理解できないひとは下がるしかない出来事が起こっている。「理解できないひとは下がって」が全体化しているような気がする。
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