【希望の川柳 十三日目】マジックリアリズムと写生-大川博幸-
- 2016/07/29
- 12:48
青蛙二匹溶けあうこともなく 大川博幸
【不思議なことがない不思議】
これ面白いなっておもうのが、語り手が二匹の蛙は溶け合うものだとあらかじめ思ってしまってることです。そういう前提があってこそ、「青蛙二匹溶けあうこともなく」が成立する。
語り手が驚いているのは、《溶けあわなかったこと》なんです。溶け合うものだとおもっていたから。
でも写生ってじつはそういうものであるようにもおもうんですよ。あらかじめ抱いていた前提がくつがえされること。それがたとえどれだけマジカルなものだったとして。
だからうらがえって、《ふつう》が驚くべきもの、マジカルなものになっていく。写生ってそういうマジックリアリズム的なものをふくんでいるんじゃないかっておもったんです。じつは。
ちなみにこの連作ってとてもおもしろい構成になっていて、どんどん語り手がぼんやりして対象世界に興味を失っていくふしぎなベクトルがあるんです。写生ってもしかしたらむしろ《ぼんやりの領域》にあるのではないか。
切迫すると、ぼんやりしてしまう。ぼんやりしようと思うと、深刻になる。 東直子『十階 短歌日記』
岡本喜八『ダイナマイトどんどん』(1978)。ヤクザが野球で勝負するっていうすごくへんな、かつ、エネルギーにみちあふれた映画なんだけれども、応援をしていた女の子たちがさいご突然全部脱いで上は裸になっているんだけれど、《意味のない裸》なんですね。そこには《意味のない裸》、誰からも意味づけられない《無意味な裸》が露呈している。関心があるのは《野球》なんですよ。で、エネルギーってじつはそういうものじゃないかと思ったんです。ふだん備給されるはずべきところにされなくなった余剰。それがエネルギーと感じられるんじゃないか。
【不思議なことがない不思議】
これ面白いなっておもうのが、語り手が二匹の蛙は溶け合うものだとあらかじめ思ってしまってることです。そういう前提があってこそ、「青蛙二匹溶けあうこともなく」が成立する。
語り手が驚いているのは、《溶けあわなかったこと》なんです。溶け合うものだとおもっていたから。
でも写生ってじつはそういうものであるようにもおもうんですよ。あらかじめ抱いていた前提がくつがえされること。それがたとえどれだけマジカルなものだったとして。
だからうらがえって、《ふつう》が驚くべきもの、マジカルなものになっていく。写生ってそういうマジックリアリズム的なものをふくんでいるんじゃないかっておもったんです。じつは。
ちなみにこの連作ってとてもおもしろい構成になっていて、どんどん語り手がぼんやりして対象世界に興味を失っていくふしぎなベクトルがあるんです。写生ってもしかしたらむしろ《ぼんやりの領域》にあるのではないか。
切迫すると、ぼんやりしてしまう。ぼんやりしようと思うと、深刻になる。 東直子『十階 短歌日記』
岡本喜八『ダイナマイトどんどん』(1978)。ヤクザが野球で勝負するっていうすごくへんな、かつ、エネルギーにみちあふれた映画なんだけれども、応援をしていた女の子たちがさいご突然全部脱いで上は裸になっているんだけれど、《意味のない裸》なんですね。そこには《意味のない裸》、誰からも意味づけられない《無意味な裸》が露呈している。関心があるのは《野球》なんですよ。で、エネルギーってじつはそういうものじゃないかと思ったんです。ふだん備給されるはずべきところにされなくなった余剰。それがエネルギーと感じられるんじゃないか。
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