【お知らせ】はらだ有彩「8月のヤバい女の子/別れとヤバい女の子」『アパートメント』レビュー
- 2016/08/01
- 22:12
私と一緒にいたことであんな時間を持たなければよかったと思わないで。ほんとうはあなたの成功を心から祈っているけれど、これくらいの意地悪はゆるしてほしい。あなたはどのみち自分の意思で箱を開けるだろう。 はらだ有彩
レビュー担当をさせていただいているウェブマガジン『アパートメント』の毎月始めに更新されるはらだ有彩(はりー)さんの「日本のヤバい女の子」。
連載第15回目の今月のはりーさんの文章は「別れとヤバい女の子」という浦島太郎と別れをめぐるエッセイです。
浦島太郎って『日本書紀』にすでに記述があってたしか最終的に仙人に会う物語になってるんですよね。つまり世俗から超越への流れにおもむく。超越的竜宮城から世俗のおじいさんになるとかではなくて。そうすると脱魔術化して、世俗化されて、教訓アレンジをしたのが現在の浦島太郎になる。だからその世俗化の際に、竜宮城や異界との別れのドラマもでてくる。
ふしぎなのは別れ際、「あけてはならない」ものをプレゼントする乙姫の存在ですよね。「あけてはならない」といわれてもらったら私なら帰りの新幹線ですぐにあけてしまうと思うんですよね。そしてその後老人となった浦島も柳本もずっと内面化していくことになる。「あけてはならないといったのにあけましたね」と「あけてはならないものをあのひとはなぜくれたんだろう」と「あのとき亀にさえであっていなかったら」を。
以下は、わたしが今回『アパートメント』のレビュー欄に書いたレビューです。
※ ※
今回のはりーさんのエッセイは〈別れ〉と浦島太郎をめぐるお話でした。浦島太郎からはりーさんが〈別れ〉っていうテーマをひっぱりだしたのがおもしろいなって思ったんです。
さいきん細田守監督の『バケモノの子』を観ていて、ちょっとこれ浦島太郎みたいだなって思ったんですよ。ポイントは、〈異界〉での暮らしと、その暮らしから〈帰ってくる〉ことです。〈異界〉に行くだけでなくて、きちんと帰ってこなければならない。つまり、あっちの世界、バケモノの世界と、乙姫と、象徴的に〈別れ〉なければならない。
その別れて帰ってくることに関わってくるのがはりーさんが文章であげられていた浦島太郎の「見るなの禁」、つまり〈玉手箱の所在〉だと思うんですよね。「あけてはならない」と言われた玉手箱を浦島太郎はあけてしまう。
浦島太郎は玉手箱をあけてしまうけれど、それは浦島太郎がおじいさんになることによって時間が〈あともどり〉できない、帰ることができないことをあらわしていると思うんですよね。というよりも、浦島太郎は今まで失っていた〈人間の時間〉を取り戻すわけです、ある意味で。老いる、ということはそういうことですよね。時間を身体化させる。
この玉手箱は『バケモノの子』において言うならば、主人公の九太(きゅうた)がバケモノの世界から現実世界に帰ってきたときにガールフレンドができたり、別れた肉親に遭遇したりすることだと思うんです。そうした〈人間的ネットワークの時間〉を取り戻すことが「バケモノの子」であったはずの主人公の〈玉手箱〉になっている。人間界のひとつひとつの玉手箱をひらいていくことで九太は〈人間の時間〉を取り戻していく。
たぶんこれから主人公はガールフレンドと「バケモノの子」ではない〈人間の家族〉をつくる。
この映画では最後にバケモノの親・熊徹が主人公・九太の(闇でできた穴の)胸に住むことを選ぶんです。身を犠牲にして。それはある意味で熊徹の〈死〉であり、熊徹との〈別れ〉でもある。そこがこの映画のたどりついた決定的なポイントになっている。
『バケモノの子』では監視カメラの映像が冒頭もラストも象徴的に何度も出てくるんだけれど、監視カメラがどんな場所でも〈まなざす〉ことができるように、〈視線〉はもはやどこにも行き来できる。〈視線〉がこの世界のあちこちにくまなく行き届くということは、〈物語〉はもうどんな細部にだってわけいっていくことができるということでもある。でも、その〈監視カメラ〉の視線は、主人公・九太の胸のなかにまでは〈絶対に入っていけない〉わけです。胸のなかには彼の〈親〉である〈バケモノの親・熊徹〉がいる。それを監視カメラは〈ぜったいに〉みることはできない。なぜなら、それは〈帰れない場所〉としての主人公の、彼〈だけ〉のものだからです。
〈帰れない場所〉ができるということ。九太はバケモノの熊徹(くまてつ)を親代わりにして成長してきたけれど、そのバケモノの親は最終的に〈いなくなってしまう〉。バケモノの親は〈この〉世界から〈は〉消えてしまう。だから主人公が「バケモノの子」として帰る場所はもうどこにもない。でもそうした〈帰れない場所〉によって、はじめて自分がその〈帰れない場所〉に支えられながら生きていくことができるような気がするんです。浦島太郎もどこかでは気づいていたんじゃないか。老いてなおやってくる〈これから〉に。〈別れ〉によってはじめてやってきた未来に。
その意味で、はりーさんが浦島太郎からひっぱりだしてきた〈別れ〉のテーマっておもしろいなって思ったんです。
〈別れ〉っていうのは、二人の人間を等価に考えることだから、浦島太郎からも考える、乙姫からも考えるってことなんです。ふたりは〈帰れない場所〉を共有した。そのとき、かれはかのじょをどう思ったか。かのじょはかれをどう思ったか。人間の九太からも考える。バケモノの熊徹からも考える。子は親をどうおもったか。親は子をどうおもったか。
そこは監視カメラがもはや入っていけない場所なんです。そしてそういう場所からひとりの人間/バケモノが生き始めるってどういうことなのかを問いかけているのが〈浦島太郎〉を反転してとらえなおしたともいえるかもしれない『バケモノの子』なのかなあと思ったんです。
「死にたい」とか「生きたい」とかそういうのじゃないんだ?貴方がまみを想う気持は 瀬戸夏子
(『歌集 そのなかに心臓をつくって住みなさい』)
レビュー担当をさせていただいているウェブマガジン『アパートメント』の毎月始めに更新されるはらだ有彩(はりー)さんの「日本のヤバい女の子」。
連載第15回目の今月のはりーさんの文章は「別れとヤバい女の子」という浦島太郎と別れをめぐるエッセイです。
浦島太郎って『日本書紀』にすでに記述があってたしか最終的に仙人に会う物語になってるんですよね。つまり世俗から超越への流れにおもむく。超越的竜宮城から世俗のおじいさんになるとかではなくて。そうすると脱魔術化して、世俗化されて、教訓アレンジをしたのが現在の浦島太郎になる。だからその世俗化の際に、竜宮城や異界との別れのドラマもでてくる。
ふしぎなのは別れ際、「あけてはならない」ものをプレゼントする乙姫の存在ですよね。「あけてはならない」といわれてもらったら私なら帰りの新幹線ですぐにあけてしまうと思うんですよね。そしてその後老人となった浦島も柳本もずっと内面化していくことになる。「あけてはならないといったのにあけましたね」と「あけてはならないものをあのひとはなぜくれたんだろう」と「あのとき亀にさえであっていなかったら」を。
以下は、わたしが今回『アパートメント』のレビュー欄に書いたレビューです。
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今回のはりーさんのエッセイは〈別れ〉と浦島太郎をめぐるお話でした。浦島太郎からはりーさんが〈別れ〉っていうテーマをひっぱりだしたのがおもしろいなって思ったんです。
さいきん細田守監督の『バケモノの子』を観ていて、ちょっとこれ浦島太郎みたいだなって思ったんですよ。ポイントは、〈異界〉での暮らしと、その暮らしから〈帰ってくる〉ことです。〈異界〉に行くだけでなくて、きちんと帰ってこなければならない。つまり、あっちの世界、バケモノの世界と、乙姫と、象徴的に〈別れ〉なければならない。
その別れて帰ってくることに関わってくるのがはりーさんが文章であげられていた浦島太郎の「見るなの禁」、つまり〈玉手箱の所在〉だと思うんですよね。「あけてはならない」と言われた玉手箱を浦島太郎はあけてしまう。
浦島太郎は玉手箱をあけてしまうけれど、それは浦島太郎がおじいさんになることによって時間が〈あともどり〉できない、帰ることができないことをあらわしていると思うんですよね。というよりも、浦島太郎は今まで失っていた〈人間の時間〉を取り戻すわけです、ある意味で。老いる、ということはそういうことですよね。時間を身体化させる。
この玉手箱は『バケモノの子』において言うならば、主人公の九太(きゅうた)がバケモノの世界から現実世界に帰ってきたときにガールフレンドができたり、別れた肉親に遭遇したりすることだと思うんです。そうした〈人間的ネットワークの時間〉を取り戻すことが「バケモノの子」であったはずの主人公の〈玉手箱〉になっている。人間界のひとつひとつの玉手箱をひらいていくことで九太は〈人間の時間〉を取り戻していく。
たぶんこれから主人公はガールフレンドと「バケモノの子」ではない〈人間の家族〉をつくる。
この映画では最後にバケモノの親・熊徹が主人公・九太の(闇でできた穴の)胸に住むことを選ぶんです。身を犠牲にして。それはある意味で熊徹の〈死〉であり、熊徹との〈別れ〉でもある。そこがこの映画のたどりついた決定的なポイントになっている。
『バケモノの子』では監視カメラの映像が冒頭もラストも象徴的に何度も出てくるんだけれど、監視カメラがどんな場所でも〈まなざす〉ことができるように、〈視線〉はもはやどこにも行き来できる。〈視線〉がこの世界のあちこちにくまなく行き届くということは、〈物語〉はもうどんな細部にだってわけいっていくことができるということでもある。でも、その〈監視カメラ〉の視線は、主人公・九太の胸のなかにまでは〈絶対に入っていけない〉わけです。胸のなかには彼の〈親〉である〈バケモノの親・熊徹〉がいる。それを監視カメラは〈ぜったいに〉みることはできない。なぜなら、それは〈帰れない場所〉としての主人公の、彼〈だけ〉のものだからです。
〈帰れない場所〉ができるということ。九太はバケモノの熊徹(くまてつ)を親代わりにして成長してきたけれど、そのバケモノの親は最終的に〈いなくなってしまう〉。バケモノの親は〈この〉世界から〈は〉消えてしまう。だから主人公が「バケモノの子」として帰る場所はもうどこにもない。でもそうした〈帰れない場所〉によって、はじめて自分がその〈帰れない場所〉に支えられながら生きていくことができるような気がするんです。浦島太郎もどこかでは気づいていたんじゃないか。老いてなおやってくる〈これから〉に。〈別れ〉によってはじめてやってきた未来に。
その意味で、はりーさんが浦島太郎からひっぱりだしてきた〈別れ〉のテーマっておもしろいなって思ったんです。
〈別れ〉っていうのは、二人の人間を等価に考えることだから、浦島太郎からも考える、乙姫からも考えるってことなんです。ふたりは〈帰れない場所〉を共有した。そのとき、かれはかのじょをどう思ったか。かのじょはかれをどう思ったか。人間の九太からも考える。バケモノの熊徹からも考える。子は親をどうおもったか。親は子をどうおもったか。
そこは監視カメラがもはや入っていけない場所なんです。そしてそういう場所からひとりの人間/バケモノが生き始めるってどういうことなのかを問いかけているのが〈浦島太郎〉を反転してとらえなおしたともいえるかもしれない『バケモノの子』なのかなあと思ったんです。
「死にたい」とか「生きたい」とかそういうのじゃないんだ?貴方がまみを想う気持は 瀬戸夏子
(『歌集 そのなかに心臓をつくって住みなさい』)
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