夏のあとがき
- 2016/08/28
- 20:19
川柳では「中八」ってとても忌み嫌われているんですね。585で詠むのはだめだと言われる。
でもなぜ駄目なのかって実は誰もよくわかっていないんじゃないかって問いを発したのが、兵頭全郎さんの「中八考」だと思うんです。この全郎さんの記事は検索すれば出てくるのでネットで読むことができるんですが、そこで全郎さんは、実は「中八」の方がむしろ自然なリズムなんじゃないかと指摘している。
それって面白い指摘だと思うんですね。音律っていうのは、非自然な成型をなしてはじめてできあがってくるものかもしれないから。
たとえば電話でとつぜん短歌や川柳をうたいはじめたら、相手が、ど、どうしたってなるじゃないですか。これって自然じゃないからだと思うんですよ。
つまり、歌っていうのは舌のきもちよさとか快楽とかここちよさとかそういうものばかり重視されて言説化されるんだけれど、ほんとうは歌や音律っていうのはふだんのゼロ的ななめらかさをいかに非自然として成型するかっていうまったく逆のベクトルがあるんじゃないかと思ったんです。
ともかくどうもこの中八ナショナリズムみたいなものがあるかもしれない。中八の言説の系譜というか。そこらへんをさぐってみるともしかすると面白いかもしれません。
その意味で、その問題構制を用意した兵頭全郎さんの「中八考」はとても大事な論考なんじゃないかと思ったんです。これからかんがえてみたいなと。いきながら。うたいながら。これは夏休みのじゆうけんきゅうとしてもとてもいいと思うんですよ。私はそうしようかなと思っていて。おや。おわりじゃないか。夏。
でもなぜ駄目なのかって実は誰もよくわかっていないんじゃないかって問いを発したのが、兵頭全郎さんの「中八考」だと思うんです。この全郎さんの記事は検索すれば出てくるのでネットで読むことができるんですが、そこで全郎さんは、実は「中八」の方がむしろ自然なリズムなんじゃないかと指摘している。
それって面白い指摘だと思うんですね。音律っていうのは、非自然な成型をなしてはじめてできあがってくるものかもしれないから。
たとえば電話でとつぜん短歌や川柳をうたいはじめたら、相手が、ど、どうしたってなるじゃないですか。これって自然じゃないからだと思うんですよ。
つまり、歌っていうのは舌のきもちよさとか快楽とかここちよさとかそういうものばかり重視されて言説化されるんだけれど、ほんとうは歌や音律っていうのはふだんのゼロ的ななめらかさをいかに非自然として成型するかっていうまったく逆のベクトルがあるんじゃないかと思ったんです。
ともかくどうもこの中八ナショナリズムみたいなものがあるかもしれない。中八の言説の系譜というか。そこらへんをさぐってみるともしかすると面白いかもしれません。
その意味で、その問題構制を用意した兵頭全郎さんの「中八考」はとても大事な論考なんじゃないかと思ったんです。これからかんがえてみたいなと。いきながら。うたいながら。これは夏休みのじゆうけんきゅうとしてもとてもいいと思うんですよ。私はそうしようかなと思っていて。おや。おわりじゃないか。夏。
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