【お知らせ】はらだ有彩「9月のヤバい女の子/理不尽とヤバい女の子」『アパートメント』レビュー
- 2016/09/01
- 21:48
無差別に理不尽な目に遭うこと。こんなことはもちろんおかしい。もちろん許されない。誰がどう見ても私は悪くない。だけど誰もどうにもしてくれない。「なんで私なの?」 はらだ有彩
※
レビュー担当をさせていただいているウェブマガジン『アパートメント』の毎月始めに更新されるはらだ有彩(はりー)さんの「日本のヤバい女の子」。
連載第16回目の今月のはりーさんの文章は「理不尽とヤバい女の子」という羽衣伝説と理不尽をめぐるエッセイです。
レビューはテーマが理不尽だったので、そこからヨブのことを思いだし、24時間テレビのことを思い出し、(書かれてはいないけれど)バートルビーのことも思い出しながら、書いてみました。でもそういったなかでも理不尽と理不尽のなかにおけるコミュニケーションがあるのではないかと思い、最後に正岡豊さんの歌をおいてみました。
以下は、わたしが今回『アパートメント』のレビュー欄に書いたレビューです。
※ ※
私はヨブ記を何度読んでも覚えることができない。ヨブという義人が理由もなく試練に遭い、神に文句を言う。するとヨブの前に神が現れ、ヨブは神に戒められる。そこでヨブが信仰を取り戻すのだ。私がどうしても覚えることができないのは、ヨブが試練に遭うくだりと、ヨブがその試練に耐えなければならないという神の言い分だ。
(鹿島田真希『六〇〇〇度の愛』)
*
今回のはりーさんのエッセイは羽衣伝説と理不尽をめぐる話でした。天女はなんの理由もなく虐げられ捨てられる。そこにはなんの物語もなかった。いったいなんなのかと。
「無差別に理不尽な目に遭うこと。こんなことはもちろんおかしい。もちろん許されない。誰がどう見ても私は悪くない。だけど誰もどうにもしてくれない。なんで私なの?なぜ私だけがこんな目に遭わなければならないの。あの子でもあの子でもよかったはずなのに」
私がはりーさんの理不尽をめぐるエッセイを読んで思い出したのが、ヨブでした。旧約聖書のヨブもまたなんの理由もなく神から虐げられる。今まで神さまのために一所懸命生きてきたのに。
ちょっとわたしが思うのは、これまでたびたび神話や物語、昔話には〈意味がゼロ〉の場所において生きるひとたちが描かれてきたのではないか。はりーさんのエッセイが前回浦島太郎だったのに関係がないことじゃないと思うんですよ。浦島太郎だって〈なんの理由〉もなく最悪のたまて箱を渡されたんですから。
〈意味がゼロの場所〉に生きる/たひとたち。人間の根っこにそういうゼロ・ポイントがある。それを忘れてはいけないんじゃないか。
たとえば、つい先日、日テレで『24時間テレビ』がありました。「愛は地球を救う」という番組です。「愛」と「地球」は同等のレベルに置かれ、「愛」にありったけの意味が込められます。ところがその裏のNHKの障害者のための情報バラエティー『バリバラ』では〈障害者〉に押しつけられる〈感動〉の〈物語〉とはなんなのかを討議する〈感動ポルノ〉をめぐる生番組が放送されていた。
わたしたちは実は〈感動〉したいために〈意味〉を利用することがある。そのことが検討されていた。
そのとき思いだしてみたいのが神話や文学において意味のゼロ・ポイントに立たざるをえなくなったひとたちがいたことです。理不尽に、なんの意味もなく、そこに立たされた。でも誰でもそういう可能性はある。物語のゼロ地点に立つ場合がある。そこにもういちどそれまでとは違ったひととの、いやそれまでのわたしとの〈つながり〉を見出す可能性があるんじゃないかと思うんですよ。ヨブや天女と手をつないでみること。なんの意味もなく。理不尽に仲良くすること。
でももちろんもうこの発話もゼロではない。意味を与えようとしています。黙らなければならない。理不尽なゼロ・ポイントから、黙ったうえで、もう一度〈理不尽〉をとおしてさがさなければならない。いや、さがすのも意味です。棒立ちしなければならない。ゼロに。
ほととぎす傷つけあえるダメージのそれぞれがひびきあえる夕森 正岡豊
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レビュー担当をさせていただいているウェブマガジン『アパートメント』の毎月始めに更新されるはらだ有彩(はりー)さんの「日本のヤバい女の子」。
連載第16回目の今月のはりーさんの文章は「理不尽とヤバい女の子」という羽衣伝説と理不尽をめぐるエッセイです。
レビューはテーマが理不尽だったので、そこからヨブのことを思いだし、24時間テレビのことを思い出し、(書かれてはいないけれど)バートルビーのことも思い出しながら、書いてみました。でもそういったなかでも理不尽と理不尽のなかにおけるコミュニケーションがあるのではないかと思い、最後に正岡豊さんの歌をおいてみました。
以下は、わたしが今回『アパートメント』のレビュー欄に書いたレビューです。
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私はヨブ記を何度読んでも覚えることができない。ヨブという義人が理由もなく試練に遭い、神に文句を言う。するとヨブの前に神が現れ、ヨブは神に戒められる。そこでヨブが信仰を取り戻すのだ。私がどうしても覚えることができないのは、ヨブが試練に遭うくだりと、ヨブがその試練に耐えなければならないという神の言い分だ。
(鹿島田真希『六〇〇〇度の愛』)
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今回のはりーさんのエッセイは羽衣伝説と理不尽をめぐる話でした。天女はなんの理由もなく虐げられ捨てられる。そこにはなんの物語もなかった。いったいなんなのかと。
「無差別に理不尽な目に遭うこと。こんなことはもちろんおかしい。もちろん許されない。誰がどう見ても私は悪くない。だけど誰もどうにもしてくれない。なんで私なの?なぜ私だけがこんな目に遭わなければならないの。あの子でもあの子でもよかったはずなのに」
私がはりーさんの理不尽をめぐるエッセイを読んで思い出したのが、ヨブでした。旧約聖書のヨブもまたなんの理由もなく神から虐げられる。今まで神さまのために一所懸命生きてきたのに。
ちょっとわたしが思うのは、これまでたびたび神話や物語、昔話には〈意味がゼロ〉の場所において生きるひとたちが描かれてきたのではないか。はりーさんのエッセイが前回浦島太郎だったのに関係がないことじゃないと思うんですよ。浦島太郎だって〈なんの理由〉もなく最悪のたまて箱を渡されたんですから。
〈意味がゼロの場所〉に生きる/たひとたち。人間の根っこにそういうゼロ・ポイントがある。それを忘れてはいけないんじゃないか。
たとえば、つい先日、日テレで『24時間テレビ』がありました。「愛は地球を救う」という番組です。「愛」と「地球」は同等のレベルに置かれ、「愛」にありったけの意味が込められます。ところがその裏のNHKの障害者のための情報バラエティー『バリバラ』では〈障害者〉に押しつけられる〈感動〉の〈物語〉とはなんなのかを討議する〈感動ポルノ〉をめぐる生番組が放送されていた。
わたしたちは実は〈感動〉したいために〈意味〉を利用することがある。そのことが検討されていた。
そのとき思いだしてみたいのが神話や文学において意味のゼロ・ポイントに立たざるをえなくなったひとたちがいたことです。理不尽に、なんの意味もなく、そこに立たされた。でも誰でもそういう可能性はある。物語のゼロ地点に立つ場合がある。そこにもういちどそれまでとは違ったひととの、いやそれまでのわたしとの〈つながり〉を見出す可能性があるんじゃないかと思うんですよ。ヨブや天女と手をつないでみること。なんの意味もなく。理不尽に仲良くすること。
でももちろんもうこの発話もゼロではない。意味を与えようとしています。黙らなければならない。理不尽なゼロ・ポイントから、黙ったうえで、もう一度〈理不尽〉をとおしてさがさなければならない。いや、さがすのも意味です。棒立ちしなければならない。ゼロに。
ほととぎす傷つけあえるダメージのそれぞれがひびきあえる夕森 正岡豊
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