あとがきが風邪を引いている?
- 2016/09/04
- 22:34
吉本隆明が『最後の親鸞』で、ひとの最終的な課題は〈愚かになること〉だって述べていたんですが、少しそこから卑俗に考えてみると、たとえば風邪をひく行為って、〈懸命に愚かになる行為〉だと思うんですよ。
ふだんいろんなことを考える、欲望したりする、いろんな分別をしたり、判断をしたり、選択をしたり、間違いをおかしたり、むだに背伸びしたりかしこまったりする。
でも、風邪をひくと、〈ぼんやり〉してしまって、すべてがあいまいになって、〈うわごと〉的になる。
そうした〈愚かになっていく〉なかで、今までじぶんが大事にしていたものが夢のように・実際夢の感覚のなかで、せりあがってくる。ずっと沈んでいた大陸みたいに。
その意味で、愚かになることってちょっと大事なのかなって思うんですよ。
愚かってなんとなくなることではなくて、愚かになっていく、っていう積極的な行為なのかなとも。自然と愚かになれるのではなくて、愚かになることを自分で試行錯誤しなければならないというか。なにか愚かは発見していくものなのかなとも思ったんですね。
定型詩っていうのは音数律に基づいているのでよくパズルみたいだとも言われるんだけれど、実はよい意味で〈愚かになること〉が賭けられているんじゃないかとも思うんです。
〈愚かな文学性〉を模索しているんじゃないかと、だからたとえばそのままをそのままに歌った〈ただごと短歌〉ってあるんだけれど、ただごとが定型をとおすと妙に神秘的になったりする。マジカルな意味性がでてくる。
そもそも歌をうたうときのひとの表情は、〈吠える〉表情に近い。これもある意味、積極的に愚かになることのひとつなんじゃないかと思うんです。でもそのなかで文学性がでてくる。
たぶん、バタイユがそれに気づいていたような気がするんです。ええとたとえば引用してみると、いや、今実はてもとにないので、いつか、また。ええと、愚かな本棚ってあると思うんですよ。管理できていないっていう、ええと、それでね、ええとね、
ふだんいろんなことを考える、欲望したりする、いろんな分別をしたり、判断をしたり、選択をしたり、間違いをおかしたり、むだに背伸びしたりかしこまったりする。
でも、風邪をひくと、〈ぼんやり〉してしまって、すべてがあいまいになって、〈うわごと〉的になる。
そうした〈愚かになっていく〉なかで、今までじぶんが大事にしていたものが夢のように・実際夢の感覚のなかで、せりあがってくる。ずっと沈んでいた大陸みたいに。
その意味で、愚かになることってちょっと大事なのかなって思うんですよ。
愚かってなんとなくなることではなくて、愚かになっていく、っていう積極的な行為なのかなとも。自然と愚かになれるのではなくて、愚かになることを自分で試行錯誤しなければならないというか。なにか愚かは発見していくものなのかなとも思ったんですね。
定型詩っていうのは音数律に基づいているのでよくパズルみたいだとも言われるんだけれど、実はよい意味で〈愚かになること〉が賭けられているんじゃないかとも思うんです。
〈愚かな文学性〉を模索しているんじゃないかと、だからたとえばそのままをそのままに歌った〈ただごと短歌〉ってあるんだけれど、ただごとが定型をとおすと妙に神秘的になったりする。マジカルな意味性がでてくる。
そもそも歌をうたうときのひとの表情は、〈吠える〉表情に近い。これもある意味、積極的に愚かになることのひとつなんじゃないかと思うんです。でもそのなかで文学性がでてくる。
たぶん、バタイユがそれに気づいていたような気がするんです。ええとたとえば引用してみると、いや、今実はてもとにないので、いつか、また。ええと、愚かな本棚ってあると思うんですよ。管理できていないっていう、ええと、それでね、ええとね、
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