【短歌】塗り絵の…/靴べらの…/シャンプーを…(東京新聞・東京歌壇2016年9月4日・東直子 選/毎日新聞・毎日歌壇2016年9月5日・加藤治郎 選・米川千嘉子 選)
- 2016/09/05
- 07:29
塗り絵のいろってなんだかどくどくしい きみの口癖は「じゃんか」だったね 柳本々々
(東京新聞・東京歌壇2016年9月4日・東直子 選)
靴べらのピンク/イエロー/パープルが忘れられない旅館があります。 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2016年9月5日・加藤治郎 選)
シャンプーをしているときに眼を閉じる大事なときも眼を閉じている 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2016年9月5日・米川千嘉子 選)
【「、」の中にはひとがいるだろう】
こないだある方と川合大祐さんの句集『スロー・リバー』について話していて、で、その方が、あの句集の最後の句凄いですね、と言われたときにふっと気がついたことがあって(ちなみにその方はなんというか〈点の表現者〉の方だったんですね、それで気がついたというのもあるんですが)、で、あの句集は、最初の句が、
ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む 川合大祐
というふうに濁点いっぱいではじまるんですよ。一応、〈点尽くし〉でこの句集ははじまるわけです。
で、この句集のさいごの句はどうなっているかというと、
だから、ねえ、祈っているよ、それだけだ、 川合大祐
というふうに、この句集って〈点〉で終わるんですよ。読点「、」で。
つまり、点で始まって点で終わるのがこの句集なんです。そしてもっと言えば、〈点の移行〉がこの句集なんです。
ノイズとしての濁点が、他者への発話分節としての読点に変化する。つまり、他者が了解不可能な意味不明な濁点が、他者が理解しやすいかたちにするための読点に変わる。それがこの句集のベクトル、開かれ方なんじゃないかと。理解不能な点から、理解可能な点へ。
そのことによって、語り手が、点をとおして、成熟したことがわかる。
そのお話していた方も点を効果的に表現に用いる方なんですが、考えてみると、点ってひとつの〈檻〉なわけです。使い方によっては点に閉じ込められてしまう。そしてこの〈檻〉っていうのは川合大祐さんのひとつのテーマでもあった。
この句集は最後読点で終わるんだけど、意味内容に注目してみると「祈っているよ」という〈祈り〉で終わってもいますよね。
わたしは、祈りって、未完に終わることだとおもうんですよ。未完のなかに身をおくこと。だって、じぶんが完全なら祈らなくてもいいので。
だから、あの読点で終わっているのって祈りのかたちそのものでもあるんじゃないかとおもったんですよね。
読点でおわったことでやっと檻はひらいたというかんじがするんです。幼年期がおわったというか。読点だから、あれは、文なら、まだ続きがあるっていうことですよね。祈りもそういうふうに続きがあるかたちをとるんじゃないか。
その方が祈りのかたちって無防備だと言っていたんですが、祈るってちょっと幼くなることなんですよね。手をあわせてひざまずいたりかがんだりするじゃないですか。だから、姿勢としては、立ちあがる前の未完のかたちをとることですよね。背もひくくして、眼もとじるし、手もつかえなくする。未熟になること、不能になることが、祈りですよね。だからそれって文を未完にする〈読点〉がほんとうに象徴的に体現しているんだなっておもったんです。
そういう最後にお祈りの話し合いをしてその話はおわったんです。祈りの姿勢はどこかものを書くひと、ものを描くひとの姿勢に似ているねって。そんなふうにわたしはその夜ねむったわけです。次世代ゲーム機の起動音ぐらい静かな夜のなかで。
プレステが回る静けさ怨憎会 川合大祐
(東京新聞・東京歌壇2016年9月4日・東直子 選)
靴べらのピンク/イエロー/パープルが忘れられない旅館があります。 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2016年9月5日・加藤治郎 選)
シャンプーをしているときに眼を閉じる大事なときも眼を閉じている 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2016年9月5日・米川千嘉子 選)
【「、」の中にはひとがいるだろう】
こないだある方と川合大祐さんの句集『スロー・リバー』について話していて、で、その方が、あの句集の最後の句凄いですね、と言われたときにふっと気がついたことがあって(ちなみにその方はなんというか〈点の表現者〉の方だったんですね、それで気がついたというのもあるんですが)、で、あの句集は、最初の句が、
ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む 川合大祐
というふうに濁点いっぱいではじまるんですよ。一応、〈点尽くし〉でこの句集ははじまるわけです。
で、この句集のさいごの句はどうなっているかというと、
だから、ねえ、祈っているよ、それだけだ、 川合大祐
というふうに、この句集って〈点〉で終わるんですよ。読点「、」で。
つまり、点で始まって点で終わるのがこの句集なんです。そしてもっと言えば、〈点の移行〉がこの句集なんです。
ノイズとしての濁点が、他者への発話分節としての読点に変化する。つまり、他者が了解不可能な意味不明な濁点が、他者が理解しやすいかたちにするための読点に変わる。それがこの句集のベクトル、開かれ方なんじゃないかと。理解不能な点から、理解可能な点へ。
そのことによって、語り手が、点をとおして、成熟したことがわかる。
そのお話していた方も点を効果的に表現に用いる方なんですが、考えてみると、点ってひとつの〈檻〉なわけです。使い方によっては点に閉じ込められてしまう。そしてこの〈檻〉っていうのは川合大祐さんのひとつのテーマでもあった。
この句集は最後読点で終わるんだけど、意味内容に注目してみると「祈っているよ」という〈祈り〉で終わってもいますよね。
わたしは、祈りって、未完に終わることだとおもうんですよ。未完のなかに身をおくこと。だって、じぶんが完全なら祈らなくてもいいので。
だから、あの読点で終わっているのって祈りのかたちそのものでもあるんじゃないかとおもったんですよね。
読点でおわったことでやっと檻はひらいたというかんじがするんです。幼年期がおわったというか。読点だから、あれは、文なら、まだ続きがあるっていうことですよね。祈りもそういうふうに続きがあるかたちをとるんじゃないか。
その方が祈りのかたちって無防備だと言っていたんですが、祈るってちょっと幼くなることなんですよね。手をあわせてひざまずいたりかがんだりするじゃないですか。だから、姿勢としては、立ちあがる前の未完のかたちをとることですよね。背もひくくして、眼もとじるし、手もつかえなくする。未熟になること、不能になることが、祈りですよね。だからそれって文を未完にする〈読点〉がほんとうに象徴的に体現しているんだなっておもったんです。
そういう最後にお祈りの話し合いをしてその話はおわったんです。祈りの姿勢はどこかものを書くひと、ものを描くひとの姿勢に似ているねって。そんなふうにわたしはその夜ねむったわけです。次世代ゲーム機の起動音ぐらい静かな夜のなかで。
プレステが回る静けさ怨憎会 川合大祐
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