【感想】やってごらん、いないいないばあを。わたくしはまだかなしくもさびしくもない 柳谷あゆみ
- 2014/04/06
- 09:17
やってごらん、いないいないばあを。わたくしはまだかなしくもさびしくもない 柳谷あゆみ
『ダマスカスへ行く 前・後・途中』
【柳谷あゆみがするいないいないばあ-指紋認証なんか、いらない-】
柳谷あゆみさんの『歌集 ダマスカスへ行く 前・後・途中』のなかに、前掲記事に書いたわたしの「指紋認証」の歌のまったく逆をいくような歌があるのでご紹介したいとおもう。
この歌でポイントになるのはまず「いないいないばあ」だとおもうのだが、「いないいないばあ」でわたしが想起するのは、フロイトの「糸巻き遊び」のくだりである。
これは糸巻きを投げては糸巻きが消えたりまたあらわれたりするのをたのしんでいたこどもの遊び、すなわち「いないいないばあ」に関するフロイトの記述なのだが、母親の不在の埋め合わせとして「いないいないばあ」が行われていたとのフロイトの解釈のように、「いないいないばあ」とはみずからの主体の根城となるようなひととの存在のやりとりの隠喩となる場合がある。
ここで大事なことは、フロイトの解釈をただあてはめることではなくて、それをきっかけにこの歌における「いないいないばあ」のありかたをみてみることである。
語り手は、「いないいないばあ」を「やってごらん」と切り出している。つまり、「わたくし」がするのではない。わたしくしと対他関係をむすべるであろうあなた(二人称主体)やかれ/かのじょ(三人称主体)に切り出しているのだ。「やってごらん」と。
しかし「わたくし」は、他者からの「いないいいないばあ」によってゆらぐわけではない。「わたくしはまだかなしくもさびしくもない」というように、だれかから「いないいないばあ」をされたとしても「わたくし」はそれによって存在が明滅するわけではないのだ。
つまり、飛躍したみかたになるが、この歌の語り手のポジショナリティをこんなふうにまとめることができるのではないだろうか。「わたくし」は定型を大幅に踏み出してしまった生き方をしているがそれをうけとめていく覚悟がある、と。
そうなのだ、柳谷あゆみ短歌の特徴のひとつに、大幅な定型の踏み出し、というものがある。ときにそれは過剰な破調となるが、しかしその破調を他者の「いないいないばあ」に惑わされることなく、ひきうけていこうとするのが柳谷あゆみ短歌における「わたくし」の強さである。
もちろんそこには「わたくしはまだかなしくもさびしくもない」という「まだ」としての語り手の不安もある。未来は、わからない。わたしは、かわらないかもしれないし、かわるかもしれない。この歌集のサブタイトル「前・後・途中」が示唆するように、わたしたちは、なにかを表象しようとするときに、時間のふりはばと向き合わざるをえない。それはかんたんにいえば、わたしがたとえこうだとおもっても、「前・後・途中」を通過したあとではちがうふうになっているかもしれないという〈わからなさ〉である。時間とは、このわたしの主体をゆらすものでもある。まさに時間こそが、わたしたちに、いないいないばあを仕掛けてくるのだ。
しかしこういう見方もできる。この語り手は「まだ」という時間幅をあらわす副詞を用いることによって、そこにかすかに他者が入り込む余地をのこしているのだと。それがこの語り手の「いないいないばあ」に対する態度と倫理でもある。わたしはわたしの生を決める強さがある。しかし、他者=時間にも、それはある。他者=あなた、にも。
柳谷あゆみの作中主体は、大きくはみだしていくみずからの主体をみずからでひきうけていこうとしつつも、しかしそこに他者がはいる余地さえものこしていこうとする、そういったまさに「わたしとあなたのいないいないばあ」的主体なのである。わたしはときに「ばあ」するが、しかしかすかに「いな」くなる。
そういったわたくしと他者のいないいないばあの〈はば〉をとらえてこうとしているのが、柳谷あゆみさんの短歌のひとつの魅力なのではないかと、わたしはおもう。
すなわちこれ(糸巻き遊び)は、消失と再現から成る遊びだったのである。(中略)これを解釈するのは容易であった。この遊びは子供によって獲得された文化的な営みの重要な結果、すなわち母が出かけるのを邪魔せずに許すことで彼が成し遂げた欲動の断念(欲動の満足の断念)と関係があった。彼は自分が利用できるものを使って、同じ消失-再現をいわば演出することによって埋め合わせをしたのである。
フロイト『快楽原則の彼岸』
『ダマスカスへ行く 前・後・途中』
【柳谷あゆみがするいないいないばあ-指紋認証なんか、いらない-】
柳谷あゆみさんの『歌集 ダマスカスへ行く 前・後・途中』のなかに、前掲記事に書いたわたしの「指紋認証」の歌のまったく逆をいくような歌があるのでご紹介したいとおもう。
この歌でポイントになるのはまず「いないいないばあ」だとおもうのだが、「いないいないばあ」でわたしが想起するのは、フロイトの「糸巻き遊び」のくだりである。
これは糸巻きを投げては糸巻きが消えたりまたあらわれたりするのをたのしんでいたこどもの遊び、すなわち「いないいないばあ」に関するフロイトの記述なのだが、母親の不在の埋め合わせとして「いないいないばあ」が行われていたとのフロイトの解釈のように、「いないいないばあ」とはみずからの主体の根城となるようなひととの存在のやりとりの隠喩となる場合がある。
ここで大事なことは、フロイトの解釈をただあてはめることではなくて、それをきっかけにこの歌における「いないいないばあ」のありかたをみてみることである。
語り手は、「いないいないばあ」を「やってごらん」と切り出している。つまり、「わたくし」がするのではない。わたしくしと対他関係をむすべるであろうあなた(二人称主体)やかれ/かのじょ(三人称主体)に切り出しているのだ。「やってごらん」と。
しかし「わたくし」は、他者からの「いないいいないばあ」によってゆらぐわけではない。「わたくしはまだかなしくもさびしくもない」というように、だれかから「いないいないばあ」をされたとしても「わたくし」はそれによって存在が明滅するわけではないのだ。
つまり、飛躍したみかたになるが、この歌の語り手のポジショナリティをこんなふうにまとめることができるのではないだろうか。「わたくし」は定型を大幅に踏み出してしまった生き方をしているがそれをうけとめていく覚悟がある、と。
そうなのだ、柳谷あゆみ短歌の特徴のひとつに、大幅な定型の踏み出し、というものがある。ときにそれは過剰な破調となるが、しかしその破調を他者の「いないいないばあ」に惑わされることなく、ひきうけていこうとするのが柳谷あゆみ短歌における「わたくし」の強さである。
もちろんそこには「わたくしはまだかなしくもさびしくもない」という「まだ」としての語り手の不安もある。未来は、わからない。わたしは、かわらないかもしれないし、かわるかもしれない。この歌集のサブタイトル「前・後・途中」が示唆するように、わたしたちは、なにかを表象しようとするときに、時間のふりはばと向き合わざるをえない。それはかんたんにいえば、わたしがたとえこうだとおもっても、「前・後・途中」を通過したあとではちがうふうになっているかもしれないという〈わからなさ〉である。時間とは、このわたしの主体をゆらすものでもある。まさに時間こそが、わたしたちに、いないいないばあを仕掛けてくるのだ。
しかしこういう見方もできる。この語り手は「まだ」という時間幅をあらわす副詞を用いることによって、そこにかすかに他者が入り込む余地をのこしているのだと。それがこの語り手の「いないいないばあ」に対する態度と倫理でもある。わたしはわたしの生を決める強さがある。しかし、他者=時間にも、それはある。他者=あなた、にも。
柳谷あゆみの作中主体は、大きくはみだしていくみずからの主体をみずからでひきうけていこうとしつつも、しかしそこに他者がはいる余地さえものこしていこうとする、そういったまさに「わたしとあなたのいないいないばあ」的主体なのである。わたしはときに「ばあ」するが、しかしかすかに「いな」くなる。
そういったわたくしと他者のいないいないばあの〈はば〉をとらえてこうとしているのが、柳谷あゆみさんの短歌のひとつの魅力なのではないかと、わたしはおもう。
すなわちこれ(糸巻き遊び)は、消失と再現から成る遊びだったのである。(中略)これを解釈するのは容易であった。この遊びは子供によって獲得された文化的な営みの重要な結果、すなわち母が出かけるのを邪魔せずに許すことで彼が成し遂げた欲動の断念(欲動の満足の断念)と関係があった。彼は自分が利用できるものを使って、同じ消失-再現をいわば演出することによって埋め合わせをしたのである。
フロイト『快楽原則の彼岸』
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