【感想】アンメルツヨコヨコ銀河から微風 西原天気
- 2014/07/22
- 00:56
アンメルツヨコヨコ銀河から微風 西原天気
【さよなら、アンメルツヨコヨコ999】
ゆうじんと、この「アンメルツヨコヨコ」の句ってどう読んだらいいんだろう、と道をあるきながら話し合っていて、で、ゆうじんからアンメルツヨコヨコという液体サロンシップを肩に塗ったときの〈銀河〉の彼方からくるような〈スーッと感〉の講釈をきいていたんですが、わたしはもうきかないふりをして、そのいっぽうで、〈アンメルツ/ヨコヨコ銀河〉と定型上割れているこの〈アンメルツ〉と〈ヨコヨコ銀河〉とはなんなのか、とかんがえていました。
松本零士の『銀河鉄道999』には「アンドロメダ星雲」がでてきますが、〈アンメルツ〉や〈ヨコヨコ銀河〉からもそうした〈星雲ネーム〉的なイメージが「銀河」と掛け合わされてもつというのがはじめてこの句をみたときのわたしの印象でした。たとえば宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』においてカムパネルラが、「ほら、ジョバンニ、みてごらん! あれが、アンメルツで、あっちが、ヨコヨコ銀河だ。綺麗だねえ」といったとしてもとくにふしぎではない、と。ちなみに星の名前には「アルクトゥールス」や「アンタレス」、「アルフェラッツ」、「アルニラム」などなぜか〈ア音〉ではじまり母音の〈ウ音〉で終わる音がおおいのです。
ちなみにこの「ヨコヨコ」なんですが、どうもアンメルツヨコヨコという液体サロンシップを〈横〉にしても塗れるんだぞ、というそれまではできなかったけれどできるようになったからねの〈進化〉アピールとして「アンメルツ」に「ヨコヨコ」とプラスαしたみたいなのです。
〈アンメルツ〉は意味内容がわからないからこそ意味表現が〈宇宙〉的に〈無限〉である一方で、〈ヨコヨコ〉においてとたんに〈横〉という意味内容が便宜的なプラグマティックな意味にひきずりおろされてしまうという、それが宇宙から肩までの〈アンメルツヨコヨコ〉の記号表現の圏域なのではないかとおもうのです。
もうひとつかんがえてみたいのが結語の「微風」です。「アンメルツヨコヨコ」の身体的な清涼感が「微風」としてあらわれている一方で、つまり「肩」としての〈感〉であると同時に、「眼」としての「感」でもあるのではないかと思うのです。なぜなら、「銀河から」と語り手は「風」の発生源を知っているかのように語っているので。
ということは、語り手はおそらくアンメルツヨコヨコを肩に塗り〈微風〉を感じつつも、「銀河から」と〈範囲〉を指定し語ることによって視覚的〈微風〉も同時に感じているのではないかとおもうのです。この〈微風〉はいま・ここを通り過ぎているただの風ではなく、銀河=あそこから肩=ここという〈幅〉をもっている〈微風〉なのです。そしてその微風が吹き抜くイメージの銀河をつらぬき媒介しているメディアが「アンメルツヨコヨコ」なのです。うらがえせば、肩のいま・ここの感覚を銀河のすみずみまで〈銀河鉄道〉のように身体拡張させるメディアが「アンメルツヨコヨコ」です。
だから、まとめてみると、「アンメルツヨコヨコ」はここでは二重の機能をもっているといえるのではないでしょうか。
ひとつは、その「アンメルツヨコヨコ」としての意味表現として〈星雲〉を呼び込んでくる意味機能。
ふたつめは、塗り薬としての「アンメルツヨコヨコ」によって身体感覚が銀河への視覚感覚と拡張=接続されていくような身体拡張ハイパーメディアとしての機能。
メーテルのヘヴィーなキスとも無関係に、〈微か〉な銀河鉄道としてのアンメルツヨコヨコは、肩から銀河系(ギャラクシー)の果てへとわたしを乗せて走っていくのです。──あれ、ゆうじんは?
星ひとつ流るる電子レンジかな 西原天気
杉井ギサブロー『銀河鉄道の夜』
【さよなら、アンメルツヨコヨコ999】
ゆうじんと、この「アンメルツヨコヨコ」の句ってどう読んだらいいんだろう、と道をあるきながら話し合っていて、で、ゆうじんからアンメルツヨコヨコという液体サロンシップを肩に塗ったときの〈銀河〉の彼方からくるような〈スーッと感〉の講釈をきいていたんですが、わたしはもうきかないふりをして、そのいっぽうで、〈アンメルツ/ヨコヨコ銀河〉と定型上割れているこの〈アンメルツ〉と〈ヨコヨコ銀河〉とはなんなのか、とかんがえていました。
松本零士の『銀河鉄道999』には「アンドロメダ星雲」がでてきますが、〈アンメルツ〉や〈ヨコヨコ銀河〉からもそうした〈星雲ネーム〉的なイメージが「銀河」と掛け合わされてもつというのがはじめてこの句をみたときのわたしの印象でした。たとえば宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』においてカムパネルラが、「ほら、ジョバンニ、みてごらん! あれが、アンメルツで、あっちが、ヨコヨコ銀河だ。綺麗だねえ」といったとしてもとくにふしぎではない、と。ちなみに星の名前には「アルクトゥールス」や「アンタレス」、「アルフェラッツ」、「アルニラム」などなぜか〈ア音〉ではじまり母音の〈ウ音〉で終わる音がおおいのです。
ちなみにこの「ヨコヨコ」なんですが、どうもアンメルツヨコヨコという液体サロンシップを〈横〉にしても塗れるんだぞ、というそれまではできなかったけれどできるようになったからねの〈進化〉アピールとして「アンメルツ」に「ヨコヨコ」とプラスαしたみたいなのです。
〈アンメルツ〉は意味内容がわからないからこそ意味表現が〈宇宙〉的に〈無限〉である一方で、〈ヨコヨコ〉においてとたんに〈横〉という意味内容が便宜的なプラグマティックな意味にひきずりおろされてしまうという、それが宇宙から肩までの〈アンメルツヨコヨコ〉の記号表現の圏域なのではないかとおもうのです。
もうひとつかんがえてみたいのが結語の「微風」です。「アンメルツヨコヨコ」の身体的な清涼感が「微風」としてあらわれている一方で、つまり「肩」としての〈感〉であると同時に、「眼」としての「感」でもあるのではないかと思うのです。なぜなら、「銀河から」と語り手は「風」の発生源を知っているかのように語っているので。
ということは、語り手はおそらくアンメルツヨコヨコを肩に塗り〈微風〉を感じつつも、「銀河から」と〈範囲〉を指定し語ることによって視覚的〈微風〉も同時に感じているのではないかとおもうのです。この〈微風〉はいま・ここを通り過ぎているただの風ではなく、銀河=あそこから肩=ここという〈幅〉をもっている〈微風〉なのです。そしてその微風が吹き抜くイメージの銀河をつらぬき媒介しているメディアが「アンメルツヨコヨコ」なのです。うらがえせば、肩のいま・ここの感覚を銀河のすみずみまで〈銀河鉄道〉のように身体拡張させるメディアが「アンメルツヨコヨコ」です。
だから、まとめてみると、「アンメルツヨコヨコ」はここでは二重の機能をもっているといえるのではないでしょうか。
ひとつは、その「アンメルツヨコヨコ」としての意味表現として〈星雲〉を呼び込んでくる意味機能。
ふたつめは、塗り薬としての「アンメルツヨコヨコ」によって身体感覚が銀河への視覚感覚と拡張=接続されていくような身体拡張ハイパーメディアとしての機能。
メーテルのヘヴィーなキスとも無関係に、〈微か〉な銀河鉄道としてのアンメルツヨコヨコは、肩から銀河系(ギャラクシー)の果てへとわたしを乗せて走っていくのです。──あれ、ゆうじんは?
星ひとつ流るる電子レンジかな 西原天気
杉井ギサブロー『銀河鉄道の夜』
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