後書
- 2016/09/25
- 22:15
さいきん『真田丸』をずっと観ながら三谷幸喜性ってなんだろうって考えてたんですけど、うすうすそうなのかなとは前から思っていたんですが、たぶんそれはその役者がそれまでなにを演じてきたかの〈身体的記憶〉を資本として使うということなんじゃないかと思うんですよね。松本幸四郎がかつて大河ドラマで主演した役名とまったくおなじ名前で出てきた。しかもそこには三谷幸喜のドラマ『王様のレストラン』の伝説のソムリエ役の記憶もかけあわせられていたはずです。そういう役者の身体的記憶を資本として使うのが三谷幸喜作品なんじゃないかとちょっと思ったんです。
だから三谷幸喜の歴史ものって、〈日本史〉を描くというよりは、〈役者の身体史〉=ドラマ史を描いてるんじゃないかってちょっとおもったんですよ。三谷幸喜作品は、ドラマ史的ドラマだと。
そこから考えて、わたしたちは誰でも身体性をもっているはずだけれど、身体性っていうのはもしかすると身体感じゃなくて、身体的記憶なんじゃないかとおもったんです。わたしたちがどういう経路をたどって今ある身体にたどりついているか。どういう身体を〈見られて〉ここまできたかじゃないかって。
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