【感想】春はすぐそこだけどパスワードが違う 福田若之
- 2014/07/22
- 06:14
春はすぐそこだけどパスワードが違う 福田若之
【「ふっかつのじゅもん」がちがう正岡子規】
とても気になる句でずっとかんがえている句なんですが、さいきん正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の感想文を書いたときに、もしかしてこの「パスワード」の句はデジタル版「鶏頭の十四五本もありぬべし」ではないかとおもったりしたのです。
「鶏頭」の句の感想文でわたしがおもったのは、その句の語り手が「十四五本」という〈不確定性〉と「ありぬべし」という〈確定記述〉の両極に〈ひきさかれ〉ていたということです。
で、福田さんの句なのですが、たとえば鶏頭語で正岡子規風に翻訳してみるとこんなふうになるのではないかとおもうのです。
鶏頭の十四五本もありぬべし(パスワードがちがいます)
「パスワード」というのは、〈こう〉「ありぬべし」とおもって打ち込むものですが、どれだけこの〈わたし〉が〈確信〉を抱いていたとしても、あらかじめ成立しているシステムにゼロワンで拒絶されるのが「パスワード」です。「パスワード」において大事なことは、主観や確信や自信の軽重が「パスワード」とはまったく無関係であること、つまり語り手の現在の主観的状態がいま働きかけているものとはほとんど無連絡になってしまうことが〈パスワード〉ではないかとおもうのです。
だからこの福田さんの句に関していえば、おそらく語り手は「春はすぐそこだけど」と主観的に確信をもって語っているのですが〈パスワード〉としての「春」は語り手のそういった主観的状態とは無関係のシステムとしてゼロワンで訪れるものなのです。
そしてふりかえってみるならば、おそらくは正岡子規の語り手も、「十四五本」と〈パスワード〉をためらったがゆえにおそらく「ありぬべし」という確信に対して「パスワードがちがいます」というゼロワン的応答をくらう主体だったのではないでしょうか。
つまりわたしは異端な読みではありますが、この福田さんの句は、デジタル・ゾンビとしての正岡子規@鶏頭の句を現代のデジタル・メディアの文脈で読み/詠み直した句なのではないかとおもうのです。
ヒヤシンスしあわせがどうしても要る 福田若之
【「ふっかつのじゅもん」がちがう正岡子規】
とても気になる句でずっとかんがえている句なんですが、さいきん正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の感想文を書いたときに、もしかしてこの「パスワード」の句はデジタル版「鶏頭の十四五本もありぬべし」ではないかとおもったりしたのです。
「鶏頭」の句の感想文でわたしがおもったのは、その句の語り手が「十四五本」という〈不確定性〉と「ありぬべし」という〈確定記述〉の両極に〈ひきさかれ〉ていたということです。
で、福田さんの句なのですが、たとえば鶏頭語で正岡子規風に翻訳してみるとこんなふうになるのではないかとおもうのです。
鶏頭の十四五本もありぬべし(パスワードがちがいます)
「パスワード」というのは、〈こう〉「ありぬべし」とおもって打ち込むものですが、どれだけこの〈わたし〉が〈確信〉を抱いていたとしても、あらかじめ成立しているシステムにゼロワンで拒絶されるのが「パスワード」です。「パスワード」において大事なことは、主観や確信や自信の軽重が「パスワード」とはまったく無関係であること、つまり語り手の現在の主観的状態がいま働きかけているものとはほとんど無連絡になってしまうことが〈パスワード〉ではないかとおもうのです。
だからこの福田さんの句に関していえば、おそらく語り手は「春はすぐそこだけど」と主観的に確信をもって語っているのですが〈パスワード〉としての「春」は語り手のそういった主観的状態とは無関係のシステムとしてゼロワンで訪れるものなのです。
そしてふりかえってみるならば、おそらくは正岡子規の語り手も、「十四五本」と〈パスワード〉をためらったがゆえにおそらく「ありぬべし」という確信に対して「パスワードがちがいます」というゼロワン的応答をくらう主体だったのではないでしょうか。
つまりわたしは異端な読みではありますが、この福田さんの句は、デジタル・ゾンビとしての正岡子規@鶏頭の句を現代のデジタル・メディアの文脈で読み/詠み直した句なのではないかとおもうのです。
ヒヤシンスしあわせがどうしても要る 福田若之
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