【感想】ゆっくりとわかるのだろうほっとかれそのままでいるプラスティックを 柳谷あゆみ
- 2014/07/22
- 12:07
ゆっくりとわかるのだろうほっとかれそのままでいるプラスティックを
ゆっくりとわかるのだろうほっとかれそのままでいるプラスティックを
ゆっくりとわかるのだろうほっとかれそのままでいるプラスティックを
【明日はわからない、わたしもかわらない。】
柳谷あゆみさんの『歌集 ダマスカスへ行く 前・後・途中』においてこの歌は、まったくおなじかたちのままに〈三回〉反復されるかたちで掲載されている。ちなみに柳谷あゆみさんの自解によれば「同じものが三つ並んでいる」この歌は「三首」ではなく「一首」と数えると書かれている(「同じことが何度も」『かばん』2014年6月号)。
はじめて歌集でこの歌をみたときにわたしはこの歌は、〈ゆっくりとわか〉っていく過程(プロセス)を、「プラスティック」を比喩として媒介しながら視覚的に表象した歌なのではないかと思っていた。ただ柳谷さんが「腐らないことを売りに普及したプラスティック」と述べているようにプラスティックは〈不変〉の比喩としても機能している。〈ゆっくりとわか〉っていく過程が描かれているようにみえながらも、しかし〈三度〉反復してもなお依然としてなにも変わらないのも「プラスティック」を媒介にした〈わかる〉なのである。語り手はじっさい「わかるのだろう」という語るだけで、その〈後〉のことはなにもいっていない。むしろここにおいて「ほっとかれそのままでいる」のは、不変のプラスティックから逆照射された語り手や読み手である。
ここですこし目線をかえて、もうすこし大きな視点からこの一首をみてみたい。
この歌集のタイトルは『ダマスカスへ行く 前・後・途中』である。注意したいのは「前・後・途中」と時間軸がタイトルに埋め込まれていることである。しかも「前・途中・後」ではなく、「前・後・途中」と時間がゆきつもどりつするかたちになっている。もっといえば、この歌集におけるタイトルから想起される〈時間イメージ〉とは直線的なベクトルとしての時間を起動すれば最終的には〈途中〉というつねに「前/後」の時間を抱きかかえたいま・ここの〈中途〉としての時間態であることに注意したい。じっさい帯文にもこう書かれていたではないか。「明日はわからない。わたしもかわらない。」。ここでは端的にこの歌集のふたつのテーマが「わからない/かわらない」とパラフレーズされながらも要約されている。ひとつは、わたしたちはつねに〈わからなさ〉としての時間軸をもつこと。ふたつめは、だからといって直線的ベクトルの時間のなかでわたしたちは進歩的成熟をするわけではなく、むしろ〈途中〉という時間態にとぐろを巻いていくような〈かわらなさ〉へのわたしたちの〈きづき〉があるということ。つまり、到達点は、〈わかる・かわらなさ〉でも、〈わからない・かわりよう〉でもなく、〈わからなさ〉としての〈かわらなさ〉にある。
たとえばこの歌集におさめられた次の歌はその例示になる。
何度でもわたし目覚めるだいじょうぶいつも目覚めるかならず目覚める
旅なんかもうしなくていい。のだろうかと。大事じゃないけど気がかりだから
わたしの人生で大太鼓鳴らすひとよ何故いま連打するのだろうか
執拗に〈目覚める〉わたしを失った〈目覚め〉としてわたしに確認するかのように反復する語り手。「いい。のだろうかと。」とどちらの〈結語〉も含みつつの〈わからない・かわらなさ〉としての旅への感情。「いないいないばあ」や「人生」の「大太鼓」という意味論的カタルシスの不発と未遂、そこからのわたしの〈わからない・かわりなさ〉。
つまりこれらは「ゆっくりとわか」ろうとし、しかし「ゆっくり」という〈時間〉が裏切られ、「わか」るという理解も挫折するという「プラスティック」表象の変種なのではないかとわたしはおもうのだ。
しかし、〈わからなさ〉としての〈かわらなさ〉を言語化しないままに、ほっときそのままにさせておくのと、その〈わからなさ〉としての〈かわらなさ〉を言語化し、反復するのは決定的にちがうはずだ。なぜなら言語化とは、しかも分節がさらに明確化された短歌という定型とは、それそのものを分節化しようとした瞬間、言語化に失敗し、かならず〈それ〉と〈言語化されたそれ〉のあいだで遅延としての意味的差異をはらんでいくからだ。つまりわたしたちはなにかを言語化した瞬間、それそのものに対しては「前」でも「後」でもなく、「途中」としての態度しかとれないのである。なぜならそれは言語化してしまったのだから。しかし、それを言語化しようとした時点でそれを完璧に表象することには失敗してしまうわけだから。
柳谷あゆみさんの短歌における〈わからなさとしてのかわらなさ〉には〈わからない〉ことによって〈かわらない〉ことによって、しかしそれをそのままに〈とどめおけない〉ことによって、そのような時間的差異がはらまれているとわたしは、おもう。プラスティックはあくまでプラスティックである。それはかわらない。わたしもかわらない。しかしプラスティックをそう言語化した瞬間に、かわらなさとしてのかわらなさとわからなさとしてのわからなさは差異のひだのなかに織り込まれていくのだ。それはかわらないこと、わからないことによってしか、かわっていかない、わかっていくしかない差異のひだである。
そしてそれは到達できない〈途中〉としてしかつねにあることのできない〈距離感〉なのだ。
だからこの歌集の読み手にとって〈ダマスカス〉はそうしたかたちをともなってかならずやってくる。それはわたしたちが〈途中〉という距離感を言語的に、挫折としての非言語的に、体感することだから。
そうした〈途中〉としてのテクストのわからない/かわらない交感運動はつぎのようなかたちでこの歌集によってあらわされるかもしれない。すなわち、
きみが気になってわたしが気になって絶対に知り合わない競争 柳谷あゆみ
プラスチックというのは、ひとつの実質であることを超えて、無限の変形という観念そのものなのである。プラスチックは、その大衆的な名称が意味しているように、目に見えるようになった偏在性なのだ。しかも、それが奇跡的な物質であるのは、まさしくこの点においてである。奇跡というのはいつでも不意に起こる自然の変換なのだ。プラスチックはこの驚きがすっかりしみ込んだままである。それはオブジェというよりも、運動の軌跡なのだ。
ロラン・バルト『現代社会の神話』
ゆっくりとわかるのだろうほっとかれそのままでいるプラスティックを
ゆっくりとわかるのだろうほっとかれそのままでいるプラスティックを
【明日はわからない、わたしもかわらない。】
柳谷あゆみさんの『歌集 ダマスカスへ行く 前・後・途中』においてこの歌は、まったくおなじかたちのままに〈三回〉反復されるかたちで掲載されている。ちなみに柳谷あゆみさんの自解によれば「同じものが三つ並んでいる」この歌は「三首」ではなく「一首」と数えると書かれている(「同じことが何度も」『かばん』2014年6月号)。
はじめて歌集でこの歌をみたときにわたしはこの歌は、〈ゆっくりとわか〉っていく過程(プロセス)を、「プラスティック」を比喩として媒介しながら視覚的に表象した歌なのではないかと思っていた。ただ柳谷さんが「腐らないことを売りに普及したプラスティック」と述べているようにプラスティックは〈不変〉の比喩としても機能している。〈ゆっくりとわか〉っていく過程が描かれているようにみえながらも、しかし〈三度〉反復してもなお依然としてなにも変わらないのも「プラスティック」を媒介にした〈わかる〉なのである。語り手はじっさい「わかるのだろう」という語るだけで、その〈後〉のことはなにもいっていない。むしろここにおいて「ほっとかれそのままでいる」のは、不変のプラスティックから逆照射された語り手や読み手である。
ここですこし目線をかえて、もうすこし大きな視点からこの一首をみてみたい。
この歌集のタイトルは『ダマスカスへ行く 前・後・途中』である。注意したいのは「前・後・途中」と時間軸がタイトルに埋め込まれていることである。しかも「前・途中・後」ではなく、「前・後・途中」と時間がゆきつもどりつするかたちになっている。もっといえば、この歌集におけるタイトルから想起される〈時間イメージ〉とは直線的なベクトルとしての時間を起動すれば最終的には〈途中〉というつねに「前/後」の時間を抱きかかえたいま・ここの〈中途〉としての時間態であることに注意したい。じっさい帯文にもこう書かれていたではないか。「明日はわからない。わたしもかわらない。」。ここでは端的にこの歌集のふたつのテーマが「わからない/かわらない」とパラフレーズされながらも要約されている。ひとつは、わたしたちはつねに〈わからなさ〉としての時間軸をもつこと。ふたつめは、だからといって直線的ベクトルの時間のなかでわたしたちは進歩的成熟をするわけではなく、むしろ〈途中〉という時間態にとぐろを巻いていくような〈かわらなさ〉へのわたしたちの〈きづき〉があるということ。つまり、到達点は、〈わかる・かわらなさ〉でも、〈わからない・かわりよう〉でもなく、〈わからなさ〉としての〈かわらなさ〉にある。
たとえばこの歌集におさめられた次の歌はその例示になる。
何度でもわたし目覚めるだいじょうぶいつも目覚めるかならず目覚める
旅なんかもうしなくていい。のだろうかと。大事じゃないけど気がかりだから
わたしの人生で大太鼓鳴らすひとよ何故いま連打するのだろうか
執拗に〈目覚める〉わたしを失った〈目覚め〉としてわたしに確認するかのように反復する語り手。「いい。のだろうかと。」とどちらの〈結語〉も含みつつの〈わからない・かわらなさ〉としての旅への感情。「いないいないばあ」や「人生」の「大太鼓」という意味論的カタルシスの不発と未遂、そこからのわたしの〈わからない・かわりなさ〉。
つまりこれらは「ゆっくりとわか」ろうとし、しかし「ゆっくり」という〈時間〉が裏切られ、「わか」るという理解も挫折するという「プラスティック」表象の変種なのではないかとわたしはおもうのだ。
しかし、〈わからなさ〉としての〈かわらなさ〉を言語化しないままに、ほっときそのままにさせておくのと、その〈わからなさ〉としての〈かわらなさ〉を言語化し、反復するのは決定的にちがうはずだ。なぜなら言語化とは、しかも分節がさらに明確化された短歌という定型とは、それそのものを分節化しようとした瞬間、言語化に失敗し、かならず〈それ〉と〈言語化されたそれ〉のあいだで遅延としての意味的差異をはらんでいくからだ。つまりわたしたちはなにかを言語化した瞬間、それそのものに対しては「前」でも「後」でもなく、「途中」としての態度しかとれないのである。なぜならそれは言語化してしまったのだから。しかし、それを言語化しようとした時点でそれを完璧に表象することには失敗してしまうわけだから。
柳谷あゆみさんの短歌における〈わからなさとしてのかわらなさ〉には〈わからない〉ことによって〈かわらない〉ことによって、しかしそれをそのままに〈とどめおけない〉ことによって、そのような時間的差異がはらまれているとわたしは、おもう。プラスティックはあくまでプラスティックである。それはかわらない。わたしもかわらない。しかしプラスティックをそう言語化した瞬間に、かわらなさとしてのかわらなさとわからなさとしてのわからなさは差異のひだのなかに織り込まれていくのだ。それはかわらないこと、わからないことによってしか、かわっていかない、わかっていくしかない差異のひだである。
そしてそれは到達できない〈途中〉としてしかつねにあることのできない〈距離感〉なのだ。
だからこの歌集の読み手にとって〈ダマスカス〉はそうしたかたちをともなってかならずやってくる。それはわたしたちが〈途中〉という距離感を言語的に、挫折としての非言語的に、体感することだから。
そうした〈途中〉としてのテクストのわからない/かわらない交感運動はつぎのようなかたちでこの歌集によってあらわされるかもしれない。すなわち、
きみが気になってわたしが気になって絶対に知り合わない競争 柳谷あゆみ
プラスチックというのは、ひとつの実質であることを超えて、無限の変形という観念そのものなのである。プラスチックは、その大衆的な名称が意味しているように、目に見えるようになった偏在性なのだ。しかも、それが奇跡的な物質であるのは、まさしくこの点においてである。奇跡というのはいつでも不意に起こる自然の変換なのだ。プラスチックはこの驚きがすっかりしみ込んだままである。それはオブジェというよりも、運動の軌跡なのだ。
ロラン・バルト『現代社会の神話』
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