気まずいあとがき
- 2016/10/17
- 08:15
たとえば世界の片隅でなんの予備知識もないひとりのこども、男子中学生や女子高生でもいいのだけれど、が句に、ただ一句に、文脈もなく出会ったらどうなるんだろう、ということを考えることがある。それが正しいことなのかどうかはわからないけれども。でもそんなふうに考えることがある。
どんなに私小説的な事柄でもことばにするときに、そこには言語構成力が入る。出来事をことばとして成立させようとする〈なにか〉がそこに入ってくる。でもその〈なにか〉があるからこそ、世界のはじっこにいるひとにも、とつぜん、〈通じて〉しまうことがある。
とくに川柳や俳句や短歌は、強制的な言語構成力を差し向ける定型があるので、そういうことをなおさら考えてしまう。
ほんとうはひとはことばにする時に、みえないことばのかみさまのようなものに、「言語構成しなさいよ」と言われているはずなのだが(でないと言葉はくらげやゼリーのようなぐじゅぐじゅのものになるだろう)、そしてそれをふだんはかくしてしまうのだが、ところが定型はそのかみさまを物質的に先取りし、ひっぱりだし、ひきずりおろしたモノなんじゃないかと思うことがある。
定型っていうのはひとがかみさまをひきずりおろしたかたちなんじゃないかとおもうことが、ある。でもひきずりおろしたはいいけれど、そのかみさまをどうしていいかは、まだだれにもわかっていない。きまずい沈黙はつづく。かみさまもひきずりだされちゃった以上、「帰っていいですか」とも言えない。かみさまもわたしたちもおなじ部屋できまずい思いをして、同居している。なにか、きまずいので、おもしろいエピソードのひとつかふたつを話そうかと思いながら。はなしはじめるきっかけをさがしながら。ときどき眼があいながら。「あの」
どんなに私小説的な事柄でもことばにするときに、そこには言語構成力が入る。出来事をことばとして成立させようとする〈なにか〉がそこに入ってくる。でもその〈なにか〉があるからこそ、世界のはじっこにいるひとにも、とつぜん、〈通じて〉しまうことがある。
とくに川柳や俳句や短歌は、強制的な言語構成力を差し向ける定型があるので、そういうことをなおさら考えてしまう。
ほんとうはひとはことばにする時に、みえないことばのかみさまのようなものに、「言語構成しなさいよ」と言われているはずなのだが(でないと言葉はくらげやゼリーのようなぐじゅぐじゅのものになるだろう)、そしてそれをふだんはかくしてしまうのだが、ところが定型はそのかみさまを物質的に先取りし、ひっぱりだし、ひきずりおろしたモノなんじゃないかと思うことがある。
定型っていうのはひとがかみさまをひきずりおろしたかたちなんじゃないかとおもうことが、ある。でもひきずりおろしたはいいけれど、そのかみさまをどうしていいかは、まだだれにもわかっていない。きまずい沈黙はつづく。かみさまもひきずりだされちゃった以上、「帰っていいですか」とも言えない。かみさまもわたしたちもおなじ部屋できまずい思いをして、同居している。なにか、きまずいので、おもしろいエピソードのひとつかふたつを話そうかと思いながら。はなしはじめるきっかけをさがしながら。ときどき眼があいながら。「あの」
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:詩・ことば
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々のあとがき