Afterword/Afterworld(あとがき/後の世界で)
- 2016/10/23
- 22:21
品川も破壊されるんですが、その品川で『シン・ゴジラ』を観たんですね。で、なんか弱ったなあというか、困ったなあっていうのが、『シン・ゴジラ』をおもしろかった、って素直に言えないためらいのようなものがあるんですよ。というか、たぶん、そういうふうにつくってある。
たとえばどうしても311を思い出させるようにつくってある。そのときそれに対しておまえはどうする、それでも「おもしろい」っていうのかってつくってあるようにもおもったんです。でももしかしたら311を描くって、〈311を描く〉ということではなくて、〈311をまったく描かない〉かたちで、それを想起させることなんじゃないかと思ったんです(事実、映画内のひとびとは誰も311のことを知らないんです。でもまったくそれにに似た状況に接してしまっている)。
311を再現するひつようはない。だって311を描くひつようなんてないんですから。しかもそれを再現したところで再現不可能だし、それは記憶の書き換えにしかならないんだから。むしろ、《想起させる》しかできないんじゃないか。それが『シン・ゴジラ』という映画だったんじゃないかと思うんです。
で、ゴジラが嘔吐するように熱線を吐瀉するシーンがあるんですが、そのときに、「Who will know」って歌が流れるんです。わたしがこの世界で死んだとしても、だれがそれを知るんだろう、って歌なんだけど、これってゴジラが発話してる〈わたし〉なんじゃないかとおもったんです。
つまりはじめてゴジラが〈私性〉をもった。
ゴジラの目的はだれにも理解できない。だからゴジラが死んでもそれを〈私性の死〉として、ゴジラの〈わたしの死〉として、だれもわかってあげることはできない。ただゴジラはだれでもないわたしとして死ぬんです。でもそれでもゴジラは破壊をつづける。自傷するように。
歌は、こう続くんです。
それでも進まなければならない。たとえ最悪の状況だとしても。吐息がつづくかぎりは。
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