夢のあとがき。
- 2014/07/23
- 00:05
【夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです】
西原天気さんが次のようなことを述べられていた。
いわゆる「なんだかわからないけれども魅了される」という句も数多い。
「わかりにくい句」の存在の背景には、読解のルールが確立されていない(あるいは私が知らないだけ、理解していないだけかもしれませんが)ということがあると考えます。
(……)
〔句は読み手によって読まれる〕という単純で明白な事実が示すことは、読者の勝手な連想・妄想が許されるということではありません。読者が読みたいように読む、のではなく、句が読まれたがっているように読む。
魔法瓶だけじゃなく、句もまた、夢を見ているのです。
読者の夢がそこにあるのではなく、句が見ている夢がある。
(……)
俳句という「不完全な一文」が私たちに伝えるものは、想像=イメージの「契機」であって、想像のすべてではない。
魅力的な句は、読み終えられるのではなく、つねに〔読み始められる〕ために、そこにある。
西原天気「【八田木枯の一句】青野にてゆめみてゐたり魔法瓶」『週刊俳句』
たとえばわたしは西原天気さんの「アンメルツヨコヨコ銀河から微風」という句や荻原裕幸さんの「恋人と棲むよろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽとしか思はれず」という歌をはじめて眼にしたとき、なんだこれは、と衝撃をうけたのだが、そのときほとんど俳句や短歌のことを、作家情報としての〈西原天気〉や〈荻原裕幸〉のことを、知らなかった・にもかかわらずわたしがその句や歌だけで衝撃をうけたということは、その句や歌だけが生成している構造の磁場にわたしがなんらかの衝撃をうけたということでもあるのではないか、とおもう。
そしてその句や歌だけがもつ磁場=磁力が西原さんのことばを借りればわたしにとっての「句が見ている夢」ということになる。
もちろんその〈夢〉にはその構造を生成(エンコード)する者として詠み手である西原さんや荻原さんも、構造を意味として再ー生成(デコード)する読み手であるわたしもかかわってはいる。かかわってはいるが、しかしそれはあくまで「句が見ている夢」から事後的に生成される(わたしの)言説でもある。
とりあえずは、「句の夢」なのだ。
「句の夢」とは、なんだろう。
句を読むときに過剰に作者主体や読者主体に寄り添うのでもなく、「句の意を読む」というようなことを考えてみた場合、じぶんなりに考えてみるとそれはなんどもなんども(句に対する考えがつかえてしまうたびに)句に立ち返るということではないかとおもうのだ。
その句に〈なんども立ち帰る〉という行為にこそ、わたしは「句の夢」にちかづく経路があるように、おもう。
だから「句の夢」とは、句がもっている/もてないでいる分節であり、句がもっている/もてないでいる時間であり、句がもっている/もてないでいる外部であり、句がもっている/もてないでいる磁場である。
その「/」をかんがえがたちどまるたびになんどもなんども往還すること。「/」を自分の投影的内面に閉じ込めるでもなく、〈作家情報との照らし合わせ〉に全面的に譲渡してしまうのでもなく、「/」をそれらすべてのあちこちに移動させつつも、もういちど句のあちこちに「/」を仕込んでいくこと。
そしてそのときはじめて構造を生成している作者主体のもつ文化的磁場と、構造を再生成している読者主体のもつ歴史的磁場が「/」のコードとして意味をもってくるように、おもうのだ。
夢、かもしれない。
でも、フロイト風にいえば、夢とはめいめいがもっている無意識の「/」を、「置き換え・象徴化・圧縮」したものだ。だから「句の夢」を読むとは、そうした代替された言語表現としての表象におのおのがみずからの歴史的身体を意識しつつもそのつど括弧にくくりながら、なんどもなんども句にたちかえる作業になるのではないかと、おもうのだ。
「魅力的な句は、読み終えられるのではなく、つねに〔読み始められる〕ために、そこにある」と、西原天気さんは、いう。
夢とは、ねむるためのものではなく、起きるための、始発としての覚醒をうながすものでもあるのだ。覚醒しようとする者だけが、おそらくは事後的にはじめて「夢」をみいだすことができるのだ。
夢とは、そうした覚醒の転倒された表象ではなかったか。夢をみるためにひとはなんども目醒めるのではなかったか。
わたしは、いま、むにゃむにゃしながら、そう、ふかく、おもうのである。
発育が夢のわたしに負けていく 柳本々々
西原天気さんが次のようなことを述べられていた。
いわゆる「なんだかわからないけれども魅了される」という句も数多い。
「わかりにくい句」の存在の背景には、読解のルールが確立されていない(あるいは私が知らないだけ、理解していないだけかもしれませんが)ということがあると考えます。
(……)
〔句は読み手によって読まれる〕という単純で明白な事実が示すことは、読者の勝手な連想・妄想が許されるということではありません。読者が読みたいように読む、のではなく、句が読まれたがっているように読む。
魔法瓶だけじゃなく、句もまた、夢を見ているのです。
読者の夢がそこにあるのではなく、句が見ている夢がある。
(……)
俳句という「不完全な一文」が私たちに伝えるものは、想像=イメージの「契機」であって、想像のすべてではない。
魅力的な句は、読み終えられるのではなく、つねに〔読み始められる〕ために、そこにある。
西原天気「【八田木枯の一句】青野にてゆめみてゐたり魔法瓶」『週刊俳句』
たとえばわたしは西原天気さんの「アンメルツヨコヨコ銀河から微風」という句や荻原裕幸さんの「恋人と棲むよろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽとしか思はれず」という歌をはじめて眼にしたとき、なんだこれは、と衝撃をうけたのだが、そのときほとんど俳句や短歌のことを、作家情報としての〈西原天気〉や〈荻原裕幸〉のことを、知らなかった・にもかかわらずわたしがその句や歌だけで衝撃をうけたということは、その句や歌だけが生成している構造の磁場にわたしがなんらかの衝撃をうけたということでもあるのではないか、とおもう。
そしてその句や歌だけがもつ磁場=磁力が西原さんのことばを借りればわたしにとっての「句が見ている夢」ということになる。
もちろんその〈夢〉にはその構造を生成(エンコード)する者として詠み手である西原さんや荻原さんも、構造を意味として再ー生成(デコード)する読み手であるわたしもかかわってはいる。かかわってはいるが、しかしそれはあくまで「句が見ている夢」から事後的に生成される(わたしの)言説でもある。
とりあえずは、「句の夢」なのだ。
「句の夢」とは、なんだろう。
句を読むときに過剰に作者主体や読者主体に寄り添うのでもなく、「句の意を読む」というようなことを考えてみた場合、じぶんなりに考えてみるとそれはなんどもなんども(句に対する考えがつかえてしまうたびに)句に立ち返るということではないかとおもうのだ。
その句に〈なんども立ち帰る〉という行為にこそ、わたしは「句の夢」にちかづく経路があるように、おもう。
だから「句の夢」とは、句がもっている/もてないでいる分節であり、句がもっている/もてないでいる時間であり、句がもっている/もてないでいる外部であり、句がもっている/もてないでいる磁場である。
その「/」をかんがえがたちどまるたびになんどもなんども往還すること。「/」を自分の投影的内面に閉じ込めるでもなく、〈作家情報との照らし合わせ〉に全面的に譲渡してしまうのでもなく、「/」をそれらすべてのあちこちに移動させつつも、もういちど句のあちこちに「/」を仕込んでいくこと。
そしてそのときはじめて構造を生成している作者主体のもつ文化的磁場と、構造を再生成している読者主体のもつ歴史的磁場が「/」のコードとして意味をもってくるように、おもうのだ。
夢、かもしれない。
でも、フロイト風にいえば、夢とはめいめいがもっている無意識の「/」を、「置き換え・象徴化・圧縮」したものだ。だから「句の夢」を読むとは、そうした代替された言語表現としての表象におのおのがみずからの歴史的身体を意識しつつもそのつど括弧にくくりながら、なんどもなんども句にたちかえる作業になるのではないかと、おもうのだ。
「魅力的な句は、読み終えられるのではなく、つねに〔読み始められる〕ために、そこにある」と、西原天気さんは、いう。
夢とは、ねむるためのものではなく、起きるための、始発としての覚醒をうながすものでもあるのだ。覚醒しようとする者だけが、おそらくは事後的にはじめて「夢」をみいだすことができるのだ。
夢とは、そうした覚醒の転倒された表象ではなかったか。夢をみるためにひとはなんども目醒めるのではなかったか。
わたしは、いま、むにゃむにゃしながら、そう、ふかく、おもうのである。
発育が夢のわたしに負けていく 柳本々々
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