はらだ有彩さんの「証明とヤバい女の子」「下ネタとヤバい女の子」のあとがき
- 2016/11/02
- 23:58
『アパートメント』のレビュー欄に書いたはらだ有彩さん連載『ヤバい女の子』のレビューです。二ヶ月ぶんをまとめてみました。
●はらだ有彩「証明とヤバい女の子」のレビュー(この頃、能楽のラジオ講座をずっときいていたんですが、はりーさんが能について書かれていたので、なんと、と思い、リンクしたレビューです。あと岡野大嗣さんと服飾のテーマはむかしから興味あります)
今回のはりーさんの話は能の「山姥」をめぐるお話だったんですが、ちょっと今回はりーさんの絵に注目してみたいと思うんですよね。
はりーさんは「山姥」をみながら「なる」という言葉に着目します。「山姥」に出てくる女性はふたりいる。
「山姥」に「なる前」の女と、「山姥」に「なった後」の女だと。
この「女」、「山姥」としてひとくくりにできない、小さいけれど、決定的な差異にはりーさんは注意をうながした。
はりーさんの今回の絵には、「世界の無数の女の子」たちとして女の子たちがゆるい列をつくって、向こう側をむいている絵が描かれているのだけれど、注意したいのは女性たちひとりひとりの服装なんです。
ひとりひとりぜんぜん違ったファッションが描かれることによって、女性のひとりひとりが各自のライフスタイルや指向性にあわせたファッションをしていることがわかる。
どれだけ「女の子」としてひとくくりにされようとも、ファッションを介して女の子はひとりひとりの小さな物語をつくっていく。「なる物語」を。
それがはりーさんの絵なんじゃないかと思うんですよ。
はりーさんは最後「取りこぼされたストーリー」に目をむけています。誰にも証明されなかったかもしれない物語。
でも、かのじょたちをずっとみていたのは、証明していたのは、服だったのではないか。
わたしはそんなふうに、おもったんですよ。
ノーメイク、セルフカットのきみだけど裏地のボアのにおいは女 岡野大嗣
●はらだ有彩「下ネタとヤバい女の子」のレビュー(このころ、たまたま金原ひとみさんの小説を読んでいたのですが、はりーさんがまたしてもアメノウズメから下ネタについて考えられていたので、わたしのアメノウズメの勘違いもふくめて、なんと、とまたリンクしたレビューです。はりーさんの今回の黒の色づかいとてもすてきでした)
わたしはてっきりアメノウズメが引きこもっていたほうだと思っていたのですが、はりーさんが書いていたようにアメノウズメはむしろ引きこもってしまった天照大神を裸ダンスで引っぱり出したひとでした。どうしてわたしは逆に覚えていたのか。
裸ダンスで解決されたひきこもり事案をどこかで認めたくなかったのかもしれない。そういうわたしの〈裸〉があったのかもしれません。
はりーさんも書いていることですが、〈下ネタ〉というのはそのようにふだん隠しているさまざまな力関係をひっぱりだしてくるようです。つまり、〈下ネタ〉こそがアメノウズメそのものではないかともおもうのです。役割としては。
下ネタによってふだん抑圧していた、わすれていた、隠していたものが、ひっぱりされてしまう。天照大神みたいに。それは下ネタにはレスポンスが発生するからです。そしてだからこそそこにはハラスメントや暴力や笑いや創造力や差別や連帯がうまれる。それが民話だろうと神話だろうとファッションショーだろうと日常会話だろうと。
さいきんたまたま金原ひとみさんの『アッシュベイビー』を読んでいたんです。金原さんは女性器を「割れ目」ではなく「裂け目」だと小説のなかで書いています。割れ目なんて言い方は綺麗すぎる。でもそうじゃない。裂けてるんだ。裂けさせて待っているんだ。いつも何かが入ってくるのを。祈っている。それが茄子とかきゅうりでないことを。
そんなふうに金原さんは書くんですね。つまり、金原さんはここで男性たちに書かれてきた「綺麗」な「割れ目」を傷をもった「裂け目」として書き換えているわけです。もしかすると、わたしたちは下ネタをときに、ためらいなく、書き換えることが必要なのかもしれません。そして性器もそのことを待っているのかもしれないし、祈っているのかもしれない。
性器を通して祈りへと通じる想像力。わたしはけっこうその描写によってアメノウズメみたいにすこし明るいぶぶんにひっぱりだされたような気がしたんです。いや、ちがう。またまちがえてる。なんどまちがえるんだろう。性は、やっかいですね。でもたぶん性はとっても奥のほう、なんどもなんども暗闇を塗り重ねられた黒のレイヤーの奥にあるんだとおもいます。
今回のはりーさんのイラストの黒のレイヤーをみながらそんなふうにおもったんですよ。性は奥のほうにある。そしてアマテラスオオミカミだってとっても暗いところにいたんだなって。
でも、すこしだけ、こっち、みてた。
だから。
希望は、ある。
●はらだ有彩「証明とヤバい女の子」のレビュー(この頃、能楽のラジオ講座をずっときいていたんですが、はりーさんが能について書かれていたので、なんと、と思い、リンクしたレビューです。あと岡野大嗣さんと服飾のテーマはむかしから興味あります)
今回のはりーさんの話は能の「山姥」をめぐるお話だったんですが、ちょっと今回はりーさんの絵に注目してみたいと思うんですよね。
はりーさんは「山姥」をみながら「なる」という言葉に着目します。「山姥」に出てくる女性はふたりいる。
「山姥」に「なる前」の女と、「山姥」に「なった後」の女だと。
この「女」、「山姥」としてひとくくりにできない、小さいけれど、決定的な差異にはりーさんは注意をうながした。
はりーさんの今回の絵には、「世界の無数の女の子」たちとして女の子たちがゆるい列をつくって、向こう側をむいている絵が描かれているのだけれど、注意したいのは女性たちひとりひとりの服装なんです。
ひとりひとりぜんぜん違ったファッションが描かれることによって、女性のひとりひとりが各自のライフスタイルや指向性にあわせたファッションをしていることがわかる。
どれだけ「女の子」としてひとくくりにされようとも、ファッションを介して女の子はひとりひとりの小さな物語をつくっていく。「なる物語」を。
それがはりーさんの絵なんじゃないかと思うんですよ。
はりーさんは最後「取りこぼされたストーリー」に目をむけています。誰にも証明されなかったかもしれない物語。
でも、かのじょたちをずっとみていたのは、証明していたのは、服だったのではないか。
わたしはそんなふうに、おもったんですよ。
ノーメイク、セルフカットのきみだけど裏地のボアのにおいは女 岡野大嗣
●はらだ有彩「下ネタとヤバい女の子」のレビュー(このころ、たまたま金原ひとみさんの小説を読んでいたのですが、はりーさんがまたしてもアメノウズメから下ネタについて考えられていたので、わたしのアメノウズメの勘違いもふくめて、なんと、とまたリンクしたレビューです。はりーさんの今回の黒の色づかいとてもすてきでした)
わたしはてっきりアメノウズメが引きこもっていたほうだと思っていたのですが、はりーさんが書いていたようにアメノウズメはむしろ引きこもってしまった天照大神を裸ダンスで引っぱり出したひとでした。どうしてわたしは逆に覚えていたのか。
裸ダンスで解決されたひきこもり事案をどこかで認めたくなかったのかもしれない。そういうわたしの〈裸〉があったのかもしれません。
はりーさんも書いていることですが、〈下ネタ〉というのはそのようにふだん隠しているさまざまな力関係をひっぱりだしてくるようです。つまり、〈下ネタ〉こそがアメノウズメそのものではないかともおもうのです。役割としては。
下ネタによってふだん抑圧していた、わすれていた、隠していたものが、ひっぱりされてしまう。天照大神みたいに。それは下ネタにはレスポンスが発生するからです。そしてだからこそそこにはハラスメントや暴力や笑いや創造力や差別や連帯がうまれる。それが民話だろうと神話だろうとファッションショーだろうと日常会話だろうと。
さいきんたまたま金原ひとみさんの『アッシュベイビー』を読んでいたんです。金原さんは女性器を「割れ目」ではなく「裂け目」だと小説のなかで書いています。割れ目なんて言い方は綺麗すぎる。でもそうじゃない。裂けてるんだ。裂けさせて待っているんだ。いつも何かが入ってくるのを。祈っている。それが茄子とかきゅうりでないことを。
そんなふうに金原さんは書くんですね。つまり、金原さんはここで男性たちに書かれてきた「綺麗」な「割れ目」を傷をもった「裂け目」として書き換えているわけです。もしかすると、わたしたちは下ネタをときに、ためらいなく、書き換えることが必要なのかもしれません。そして性器もそのことを待っているのかもしれないし、祈っているのかもしれない。
性器を通して祈りへと通じる想像力。わたしはけっこうその描写によってアメノウズメみたいにすこし明るいぶぶんにひっぱりだされたような気がしたんです。いや、ちがう。またまちがえてる。なんどまちがえるんだろう。性は、やっかいですね。でもたぶん性はとっても奥のほう、なんどもなんども暗闇を塗り重ねられた黒のレイヤーの奥にあるんだとおもいます。
今回のはりーさんのイラストの黒のレイヤーをみながらそんなふうにおもったんですよ。性は奥のほうにある。そしてアマテラスオオミカミだってとっても暗いところにいたんだなって。
でも、すこしだけ、こっち、みてた。
だから。
希望は、ある。
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