【感想】ばっきゅーんうちぬかれたハートはもうはつなつのチョークのよう 内田遼乃
- 2014/07/23
- 05:46
ばっきゅーんうちぬかれたハートはもうはつなつのチョークのよう 内田遼乃「前髪ぱっつん症候群(シンドローム)」『週刊俳句』
【キ、キヨラカに、メリバ。見てくれ】
内田遼乃さんの俳句をみたときにわたしは川柳における普川素床さんや短歌におけるフラワーしげるさんを想い浮かべていた。
ときどき普川素床さんの川柳についてかんがえていることがある。
普川素床さんの川柳といえば、わたしにとっては定型のダイナマイトのような川柳ばかりである。
たとえば、
ボ、ボクはキ、キヨラカに外道
くしゃくしゃな空ペンギンが歩いていく
でも、先生天使の服装だけはやめてね
真昼の決闘 どの戸もどの戸も「入ってます」
ハハハヒヒヒ 鏡の眠っている部分
ギャグを考えていると闇がじゃあね、と云った
などすべて定型にダイナマイトを投げ入れてそのつどそのつど一回的な爆発が起こるようになっている。ただ普川素床さんの『川柳の実験書 文芸オクトパス・そよ風』を読んでいると「批評の部」にデリダやソシュールやウィトゲンシュタインの名前が出てくるので、もしかしたらそのダイナマイトにもなにか理論的背景があるのかなと思ったりもするが(三人とも言語構築の自明性を、デリダは〈矛盾〉から、ソシュールは〈差異〉から、ウィトゲンシュタインは〈使用〉から、つきくずひとたちだ)、ただ大事なことはそうした〈現代思想〉的な磁場にまったく普川さんの川柳がひっぱられていないということである。どんな枠組みも拒絶するような、なんなんだこれは、をたえずつきつけられているような感じなのである。
たとえばおなじような定型のダイナマイト(なんなんだこれは)をわたしはフラワーしげるさんの短歌にも感じている。
きみが生まれた町の隣の駅の不動産屋の看板の裏に愛の印を書いておいた。見てくれ フラワーしげる
こうした内田遼乃さんの俳句、普川素床さんの川柳、フラワーしげるさんの短歌をみていると、定型とは、定型を信じているときにしかあらわれない〈共同幻想〉でしかないのではないかと思われてくることがある。それは〈信じ〉ているひとには確たるかたちであらわれるのだが、〈信じ〉ていないひとには定型とは定型のフォルムをおびやかす定型としてあらわれてくる。
都築直子さんが『短歌研究』2011年6月号において「国家非常時にはジャーナリズムから定型短詩におよびがかかる。いわゆる国難の下において、新聞が詩やエッセイではなく短歌や俳句を一般読者から広く募るのは、それが定型詩だからだ」と述べているが、定型とはそうした強固な〈共同幻想〉をかたちづくる沈黙のコミュニケーションとして機能しているのではないかと思うことがある。共同幻想かつ沈黙のコミュニケーションであるために、定型に雄弁になっては、定型を侵犯しては、定型のリアルをえぐりだしては、いけないのである。
共同幻想的定型は、「災事」において強く求められるように、巨大な記憶装置としても機能している。わすれないでいようとするちから、だ。国民的な記憶が要請されるとき定型が必要とされる。しかし裏返せば、それまであった記憶が更新されてしまうとき、それまであった記憶が消されてしまい、別の記憶が〈ごく自然〉にとってかわられるときにも定型は記憶装置として働いてしまうあやしさ/あやうさがあるのではないかということである。定型とは発話化されれば呪術的意味をただちに持つような呪(まじな)いの形式でもあるのだ。たとえば、渡部泰明さんが「和歌とギリシャ・ローマの詩」『文学 特集 文体としての異性装』2010年7・8月号において定型と「因果関係がないはずなのに、そこに因果関係ができ得ると信じさせる」呪術にかんする類比的関係を指摘していて興味深い。定型は極端な短さによりたとえ因果関係がくるっていたとしても因果関係を発動させてしまう力があるというようなことを指摘している。
ところがそうした定型の構造的因果力や記憶装置を媒介せずに、それでも定型をいしずえにするジャンルのなかにダイナマイトをしかけながら、〈テロ〉としての定型のありかたをまさぐる内田遼乃さんの俳句や普川素床さんの川柳やフラワーしげるさんの短歌がある。
定型というのは、もしかしたら〈陣地戦〉をいつでも行える場所としていつでもひらかれた〈場所〉としてあるのではないかとおもう。そしてその〈場所〉で定型観をつきつけてみることが、もしかしたら定型詩を〈詠む/読む〉といった作業になるのではないかとも思う。
「〈危機〉の瞬間こそ、ひとに真剣で誠実な思考を強いるときでもあったことを忘れてはならない」(五味渕典嗣『言葉を食べる』)。
定型はいつでも積極的な〈危機〉へと、〈メリーバッドエンド〉へと、ひらかれて、ある。
この首の先は君にかかってる私をメリバにつれてって(はつなつや) 内田遼乃
【キ、キヨラカに、メリバ。見てくれ】
内田遼乃さんの俳句をみたときにわたしは川柳における普川素床さんや短歌におけるフラワーしげるさんを想い浮かべていた。
ときどき普川素床さんの川柳についてかんがえていることがある。
普川素床さんの川柳といえば、わたしにとっては定型のダイナマイトのような川柳ばかりである。
たとえば、
ボ、ボクはキ、キヨラカに外道
くしゃくしゃな空ペンギンが歩いていく
でも、先生天使の服装だけはやめてね
真昼の決闘 どの戸もどの戸も「入ってます」
ハハハヒヒヒ 鏡の眠っている部分
ギャグを考えていると闇がじゃあね、と云った
などすべて定型にダイナマイトを投げ入れてそのつどそのつど一回的な爆発が起こるようになっている。ただ普川素床さんの『川柳の実験書 文芸オクトパス・そよ風』を読んでいると「批評の部」にデリダやソシュールやウィトゲンシュタインの名前が出てくるので、もしかしたらそのダイナマイトにもなにか理論的背景があるのかなと思ったりもするが(三人とも言語構築の自明性を、デリダは〈矛盾〉から、ソシュールは〈差異〉から、ウィトゲンシュタインは〈使用〉から、つきくずひとたちだ)、ただ大事なことはそうした〈現代思想〉的な磁場にまったく普川さんの川柳がひっぱられていないということである。どんな枠組みも拒絶するような、なんなんだこれは、をたえずつきつけられているような感じなのである。
たとえばおなじような定型のダイナマイト(なんなんだこれは)をわたしはフラワーしげるさんの短歌にも感じている。
きみが生まれた町の隣の駅の不動産屋の看板の裏に愛の印を書いておいた。見てくれ フラワーしげる
こうした内田遼乃さんの俳句、普川素床さんの川柳、フラワーしげるさんの短歌をみていると、定型とは、定型を信じているときにしかあらわれない〈共同幻想〉でしかないのではないかと思われてくることがある。それは〈信じ〉ているひとには確たるかたちであらわれるのだが、〈信じ〉ていないひとには定型とは定型のフォルムをおびやかす定型としてあらわれてくる。
都築直子さんが『短歌研究』2011年6月号において「国家非常時にはジャーナリズムから定型短詩におよびがかかる。いわゆる国難の下において、新聞が詩やエッセイではなく短歌や俳句を一般読者から広く募るのは、それが定型詩だからだ」と述べているが、定型とはそうした強固な〈共同幻想〉をかたちづくる沈黙のコミュニケーションとして機能しているのではないかと思うことがある。共同幻想かつ沈黙のコミュニケーションであるために、定型に雄弁になっては、定型を侵犯しては、定型のリアルをえぐりだしては、いけないのである。
共同幻想的定型は、「災事」において強く求められるように、巨大な記憶装置としても機能している。わすれないでいようとするちから、だ。国民的な記憶が要請されるとき定型が必要とされる。しかし裏返せば、それまであった記憶が更新されてしまうとき、それまであった記憶が消されてしまい、別の記憶が〈ごく自然〉にとってかわられるときにも定型は記憶装置として働いてしまうあやしさ/あやうさがあるのではないかということである。定型とは発話化されれば呪術的意味をただちに持つような呪(まじな)いの形式でもあるのだ。たとえば、渡部泰明さんが「和歌とギリシャ・ローマの詩」『文学 特集 文体としての異性装』2010年7・8月号において定型と「因果関係がないはずなのに、そこに因果関係ができ得ると信じさせる」呪術にかんする類比的関係を指摘していて興味深い。定型は極端な短さによりたとえ因果関係がくるっていたとしても因果関係を発動させてしまう力があるというようなことを指摘している。
ところがそうした定型の構造的因果力や記憶装置を媒介せずに、それでも定型をいしずえにするジャンルのなかにダイナマイトをしかけながら、〈テロ〉としての定型のありかたをまさぐる内田遼乃さんの俳句や普川素床さんの川柳やフラワーしげるさんの短歌がある。
定型というのは、もしかしたら〈陣地戦〉をいつでも行える場所としていつでもひらかれた〈場所〉としてあるのではないかとおもう。そしてその〈場所〉で定型観をつきつけてみることが、もしかしたら定型詩を〈詠む/読む〉といった作業になるのではないかとも思う。
「〈危機〉の瞬間こそ、ひとに真剣で誠実な思考を強いるときでもあったことを忘れてはならない」(五味渕典嗣『言葉を食べる』)。
定型はいつでも積極的な〈危機〉へと、〈メリーバッドエンド〉へと、ひらかれて、ある。
この首の先は君にかかってる私をメリバにつれてって(はつなつや) 内田遼乃
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