【あとがき】上野俊哉『荒野のおおかみ 押井守論』のあとがき
- 2016/11/20
- 20:54
押井守にとっては「あらゆる情動(気持ちのはたらきかけあい)は戦争に規定されている」。戦争が「最終審級」であるような世界に生きているという事実を、押井は映画の観客に突き付け、著作の読者に自覚させる。この場合、押井にとっての戦争は、何のためにおこなっているのか、究極的には無意味であることを薄々わかっているのに、あらゆる日常がそれに向けて動員されているような行為一般を指している。
文民統制(シビリアン・コントロール)による戦争の抑制や限定が、逆に官僚制や役人仕事のなかで無意味に戦線を拡大し、戦争を長期化する結果につながるという逆説は、しばしば彼の作品に登場する。
虚構を作り出し、同時にそれをたえず養分として増殖し、伝染するのがファシズムやナショナリズムのつねであるならば、その魅惑を感性や表現において徹底して追求しながら、同時にリアルな視線、現実を細部において分析する視線を捨てずにいること、戦間期にはそうした態度が求められる。戦争という状況にとっての最大の危機は、人々がその意味を考え始めること、あるいは戦線や後方の兵士が立ち止まって問いを発するさいの、その時間の経過そのものである。
映像=イメージの裏には何もない、ただ不在(無意味)が存在するだけであり、アニメの場合には特にそうだ。ファシズム(あるいはその萌芽状態であり、その分身=双子であるナショナリズムやデモクラシー)は、この事実に耐えることができなくなった知性や感性が逃げ込む情動の操作手法にほかならない。
押井守に言わせれば、批評家は詠歌からの祝福や恩寵を永遠に与えられることがない、「イエスに愛されなかったユダのようなもの」であるという。
映画や本は、その内容を「わかるため、理解するためにあるのではない」ということを教えてくれた押井守監督。
上野俊哉「あとがき」『荒野のおおかみ 押井守論』
文民統制(シビリアン・コントロール)による戦争の抑制や限定が、逆に官僚制や役人仕事のなかで無意味に戦線を拡大し、戦争を長期化する結果につながるという逆説は、しばしば彼の作品に登場する。
虚構を作り出し、同時にそれをたえず養分として増殖し、伝染するのがファシズムやナショナリズムのつねであるならば、その魅惑を感性や表現において徹底して追求しながら、同時にリアルな視線、現実を細部において分析する視線を捨てずにいること、戦間期にはそうした態度が求められる。戦争という状況にとっての最大の危機は、人々がその意味を考え始めること、あるいは戦線や後方の兵士が立ち止まって問いを発するさいの、その時間の経過そのものである。
映像=イメージの裏には何もない、ただ不在(無意味)が存在するだけであり、アニメの場合には特にそうだ。ファシズム(あるいはその萌芽状態であり、その分身=双子であるナショナリズムやデモクラシー)は、この事実に耐えることができなくなった知性や感性が逃げ込む情動の操作手法にほかならない。
押井守に言わせれば、批評家は詠歌からの祝福や恩寵を永遠に与えられることがない、「イエスに愛されなかったユダのようなもの」であるという。
映画や本は、その内容を「わかるため、理解するためにあるのではない」ということを教えてくれた押井守監督。
上野俊哉「あとがき」『荒野のおおかみ 押井守論』
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