【あとがき】五味渕典嗣『言葉を食べる』のあとがき
- 2014/03/30
- 01:12
もちろん、あらゆるテクストに〈いま〉を見出せると思うのは、過去を論じる者に不可避的につきまとう遠近法的な倒錯にすぎないし、〈いま〉を語ったつもりになることで、分析の未熟さや不完全さが糊塗できるとも思わない(それはそれとして批判されるべき事柄だ)。だが、「文学作品」を論じる際には、「それが成立した時代のなかにそれを認識する時代を描き出すこと」こそが大切なのだ、と言った1931年のベンヤミンに励まされつつ、1920年代の谷崎潤一郎は孤立してはいたが歴史に背を向けていたわけではないし、1920年代の谷崎の作は同時代的に孤独だったかも知れないが、すなわち批評性の欠如と同義ではない、というとりあえずの本書の結論を、改めて表明しておきたいと思う。さらにいえば、この時期の谷崎の実践が、ジャンルとしての小説に記憶として刻み込まれてあるとすれば、そして、それゆえにこれらの作が何度も読み返され、参照されてきたのだとすれば、まだ、少しの希望はあるはずだ。
五味渕典嗣「余白に──小説という希望」『言葉を食べる──谷崎潤一郎、1920~1931』
五味渕典嗣「余白に──小説という希望」『言葉を食べる──谷崎潤一郎、1920~1931』
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