【あとがき】広瀬正浩『戦後日本の聴覚文化』のあとがき
- 2016/12/14
- 10:58
実際に「他者」論を展開するにあたり、抽象的な議論をすることは念頭になかった。私は、戦後日本における具体的な「他者」として「アメリカ」を想定した。戦後の日本人にとってアメリカは、憧れと畏怖の対象であり、妄想を喚起する契機だった。
ただ、戦後の日米関係をめぐる歴史資料を精査するという研究をおこなおうとは思わなかった。それはすでに誰かがやっていることであり、自分がすべきことではないという思いがあった。自分にとってそれは得意な手法ではない、という限界もあった。そこで私は「アメリカはどのような過程で「他者」として受け入れられていくのだろうか? アメリカを「他者」と名指すこと自体がきわめて政治的なことではないのか?」という問題意識をもち、他者が「他者」として立ち上がってくる瞬間を捉えようと思った。
私の研究活動により、金銭的・時間的・肉体的・精神的な負担を今後も家族にかけ続けると思うが、そんな私のことをこれからも許していただきたい。
多くの人たちから支えを得ているからこそ、私は《徹底的に》貪欲であらねば、と思う。
広瀬正浩「あとがき」『戦後日本の聴覚文化』
ただ、戦後の日米関係をめぐる歴史資料を精査するという研究をおこなおうとは思わなかった。それはすでに誰かがやっていることであり、自分がすべきことではないという思いがあった。自分にとってそれは得意な手法ではない、という限界もあった。そこで私は「アメリカはどのような過程で「他者」として受け入れられていくのだろうか? アメリカを「他者」と名指すこと自体がきわめて政治的なことではないのか?」という問題意識をもち、他者が「他者」として立ち上がってくる瞬間を捉えようと思った。
私の研究活動により、金銭的・時間的・肉体的・精神的な負担を今後も家族にかけ続けると思うが、そんな私のことをこれからも許していただきたい。
多くの人たちから支えを得ているからこそ、私は《徹底的に》貪欲であらねば、と思う。
広瀬正浩「あとがき」『戦後日本の聴覚文化』
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:詩・ことば
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:あとがき選集