【お知らせ】書評「転校生は助詞まみれ-小池正博句集『転校生は助詞まみれ』評」『豈』59号・2016年12月
- 2017/01/22
- 16:27
『豈』59号(2016年12月)に、書評として「転校生は助詞まみれ-小池正博句集『転校生は助詞まみれ』評」を寄稿しました。
小池正博さんの川柳を考えることって、自分にとっては川柳ってなんだろうって考えることにもつながっているんですね。
で、さいきん思っているのが、川柳っていうのは、助詞の問題なんじゃないかっていうことです。これは樋口由紀子さんの知見によっているんですが、意味内容も大事なんだけれども、意味内容を細かく規定していく助詞がもっと大事なんじゃないか、とさいきん思っているんです。
もっというと、川柳の主体はどうやって立ち上がっているのかというと、助詞によって立ち上がっている気がするんですよ。でもそれは川柳の問題だけじゃない。
たとえば。「わたしはやぎもともともとと言います」と自己紹介するのと、「わたしがやぎもともともととと言います」では、それからの主体のありかた、受け取られ肩が異なるはずです。「が」にするとちょっとへんですよね。「は」っていうのは落ち着いて説明する助詞なのに対して、「が」っていうのはちょっと驚きを含む助詞なんですよ。「花が咲いている」って言った場合、花が咲いていることに少し驚いているわけです。「花は咲いている」だと落ち着きますよね。
だからそういう細かい部分に意外に主体の重要な部分が規定されているんじゃないかって。
そういうふうに、おもったわけです。
ライオンが捨てられている花の岸 小池正博
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