【感想】春は曙そろそろ帰つてくれないか 櫂未知子
- 2014/07/24
- 23:24
春は曙そろそろ帰つてくれないか 櫂未知子
【さよならできないイイネ!主体】
きのう書いた感想文の飯島晴子さんの句「葛の花来るなと言つたではないか」と対になるような句である。
飯島さんの句は〈来る〉行為としての侵犯だったが、櫂さんの句は〈いる〉行為が侵犯になっていくようなベクトルをもった句である。
坪内稔典さんが、この「春は曙」の時間は清少納言の時代の文脈において、〈夜明け〉としての恋人との別れの時間であり、それをあっさりくつがえしているのがこの句のおもしろさといっている。
坪内さんの読みに説得されつつも、すこしちがう視点からこの句となんとかくんずほぐれつしてみたい。
「春は曙」と発話された瞬間、潜在的文脈としてひきこまれているのは清少納言『枕草子』の「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」である。
だから上五でインターテクストとしてクラッシュしているのは、「春の夜明けって、イイヨネ!なにが、いいかっていうと、山のあたりなんかがだんだん薄くフラッシュしてきて、でもまあ春もいいんだけど、そういえば夏の夜もイインダヨネ!あと秋もね、ええとね」という「四季に関するイイネ!ボタンの羅列と饒舌」である。
ところがその饒舌的文脈と拮抗しあう「そろそろ帰つてくれないか」という〈打ち切り〉が出てくるのがこの句における力学である。
つまり、わたしがあえて読み込んでみるならばこういうことになる。
この句の上七には、季感を理解し、古典を理解し、文学を理解する(あえていえば)俳句的主体がいる。それが「春は曙」である。「春は曙」は〈春〉の季語ではあるものの、『枕草子』がインターテクスチュアルに導入されることによって四季のすべての季感が上七で参照(レファレンス)されることになる。それこそ充溢した俳句的主体なのである。
しかし、その俳句的主体を「そろそろ帰つてくれないか」という古典文学と拮抗する口語=日常的会話(コロキアル)でもって転覆するのが、中七下五である。
つまり、この句は、俳句的全能感が、非俳句的感性によってくつがえされてしまう句なのではないか。というよりも、もっといえば、文学的主体が非文学的主体に「帰ってね」のひとことで棄却されてしまう句なのではないか。
もちろん、この読みに自信は、ない。
だから、わたしはいいわけがましく、長話している。
わたしも長話がすきだし、清少納言のように、あれいいよね、あれもいいよね、といって、さよならできず、むやみやたらと長引かせるイイネ!主体なのである。
つまり、わたしは、さよならしたあとの立ち話で本領発揮しはじめて長話するタイプの人間なのである。だから、ええと──
いや、
そろそろ、帰ってくれないか。
はい。
【さよならできないイイネ!主体】
きのう書いた感想文の飯島晴子さんの句「葛の花来るなと言つたではないか」と対になるような句である。
飯島さんの句は〈来る〉行為としての侵犯だったが、櫂さんの句は〈いる〉行為が侵犯になっていくようなベクトルをもった句である。
坪内稔典さんが、この「春は曙」の時間は清少納言の時代の文脈において、〈夜明け〉としての恋人との別れの時間であり、それをあっさりくつがえしているのがこの句のおもしろさといっている。
坪内さんの読みに説得されつつも、すこしちがう視点からこの句となんとかくんずほぐれつしてみたい。
「春は曙」と発話された瞬間、潜在的文脈としてひきこまれているのは清少納言『枕草子』の「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」である。
だから上五でインターテクストとしてクラッシュしているのは、「春の夜明けって、イイヨネ!なにが、いいかっていうと、山のあたりなんかがだんだん薄くフラッシュしてきて、でもまあ春もいいんだけど、そういえば夏の夜もイインダヨネ!あと秋もね、ええとね」という「四季に関するイイネ!ボタンの羅列と饒舌」である。
ところがその饒舌的文脈と拮抗しあう「そろそろ帰つてくれないか」という〈打ち切り〉が出てくるのがこの句における力学である。
つまり、わたしがあえて読み込んでみるならばこういうことになる。
この句の上七には、季感を理解し、古典を理解し、文学を理解する(あえていえば)俳句的主体がいる。それが「春は曙」である。「春は曙」は〈春〉の季語ではあるものの、『枕草子』がインターテクスチュアルに導入されることによって四季のすべての季感が上七で参照(レファレンス)されることになる。それこそ充溢した俳句的主体なのである。
しかし、その俳句的主体を「そろそろ帰つてくれないか」という古典文学と拮抗する口語=日常的会話(コロキアル)でもって転覆するのが、中七下五である。
つまり、この句は、俳句的全能感が、非俳句的感性によってくつがえされてしまう句なのではないか。というよりも、もっといえば、文学的主体が非文学的主体に「帰ってね」のひとことで棄却されてしまう句なのではないか。
もちろん、この読みに自信は、ない。
だから、わたしはいいわけがましく、長話している。
わたしも長話がすきだし、清少納言のように、あれいいよね、あれもいいよね、といって、さよならできず、むやみやたらと長引かせるイイネ!主体なのである。
つまり、わたしは、さよならしたあとの立ち話で本領発揮しはじめて長話するタイプの人間なのである。だから、ええと──
いや、
そろそろ、帰ってくれないか。
はい。
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