【詩】「馬場さん」『現代詩手帖』2017年4月号(廿楽順治・日和聡子(選外佳作) 選)
- 2017/03/29
- 00:17
なんなのか、ぬめるような道路をあるいていくと、あるくごとにからだがすこしずつしずんでいくようなきもち。みずの臭いは馬場さんの部屋まで続いていた。
「かわのおとがする。しずかなようでときどき刃物を研ぐような音があたりいちめんひびいている。きもちがわるい」と馬場さんがいう。わたしは耳をおさえた。空気はすんでいる。ひかり。ながれこんでくる。「ひかりだとおもう」とわたしは話した。
もう見捨てられるのがわかっていたのに、わたしは髭をたくわえたカラマーゾフのように、真剣だった。
「もっとしっかりしないとね」と裸のくしゃくしゃした臭いのする馬場さんがいった。もっとほんとうの場所にいきたいとおもったわたしは馬場さんに話しかける。
「先生」と、わたしはいった。わたしは馬場さんにむかってそういったのだ。おどろいた。まるでじぶんのくちびるがじぶんのくちびるのようにはかんじられなかった。わたしはこそこそと馬場さんの光にふれた。馬場さんは「さしつかえないよ」と言った。それもカラマーゾフだった。わたしは、うろたえた。うろたえたときの香りがしていた。
「すべて、こっち」と、馬場さんがいう。「すべて、こっちに死んじゃっていいから」
わたしは身動きしなかった。身動きしないまま、だるく、重くなっていくからだをできるだけ馬場さんにみせないようにした。わたしは、だらしなく、素晴らしくなくなっていった。
「くちびるとくちびるをふれあわせるときに眼鏡や歯がじゃまになるかんじが」と馬場さんはいう。「カラマーゾフのほんとう」
馬場さんは体毛のないわたしの腕や脛をさわった。くちびるをつまんだ。ときどき髪をひっぱった。眼を舐めようとした。わたしのからだをゆさぶった。「なあに」と馬場さんがいった。「なんなの」とわたしもいった。
柳本々々「馬場さん」『現代詩手帖』2017年4月号(廿楽順治・日和聡子(選外佳作) 選)
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