【感想】荻原裕幸『歌集 デジタル・ビスケット』―デジタル・メディアを食べた歌集―
- 2014/07/25
- 12:58
永田和宏さんの歌にこんなうたがある。
熟ヾ(つくづく)とそのさびしさを辿りきて全歌集そろそろ死に近きころ 永田和宏
この歌からわかるのは、歌人にとって「全歌集」とはある意味、「死に近き」〈晩年〉の表象でもあるということである(ちなみに「全歌集」を流れる〈時間〉に着目した永田和宏さんのエッセイに「全歌集の〈時間〉」『新樹滴滴』がある。高安国世さんの「全歌集」について述べたものではあるが、今回のわたしの文章はこの永田さんのエッセイに着想を得ている)。
このときにぱっと思い浮かべたのが、荻原裕幸さんの歌集『デジタル・ビスケット』である。この『デジタル・ビスケット』がなによりも歌集として特筆されるべきはそれが歌人の〈晩年〉の表象として出版されたわけではなく、「短歌活動の二十年あまりの流れが一望できる」「思いきった企画」としての「全歌集」(全既刊歌集)として出版されたことである。実際「あとがき」において荻原さんは「歌のわかれを告げる予定はないので、遠からず裏切るであろう『全』の一文字を遠慮して、別のタイトル(『デジタル・ビスケット』)を付けた」と記している。つまり、この〈全歌集〉は〈全歌集〉としてあるわけではなく、途上の裏切られる〈全〉として、つまりそれまでの通時的な縦軸としての「全歌集」ではなく、むしろその時点における共時的な横軸としての「全歌集」として機能しているのである。通時性ではなく、共時性として存在する「全」歌集。出版されたのは、2001年のことだ。
この荻原裕幸さんの試みた「全歌集」とはさきほどの永田さんの歌の「全歌集」とは異なる感性のもとに築かれた「全歌集」ではなかったかというのが今回の私の文章の趣旨である。つまり、このとき、はじめて(そういうことばがあるならば)〈歌集史〉において、個々人の個人史=歴史的統辞機能を有する「全歌集」というメディアに対する感性が、〈デジタル・メディア〉の文脈においてデータベース的範列機能を有する「全歌集」へとシフトしたのではないかとおもうのだ。共時的な、次々と歌自体がリンクし、相互参照しあうようなデータベース的全歌集として。
つまりネットという巨大なデーターベースの保有庫をだれもがポータブルに、それこそビスケットのようにポケットにいれられる時代にあっては想像することはたやすくなったのだけれど、そういったいつでも・そこでも〈全歌集〉的単位で表現をかんがえる、もしくは個人個人が全歌集的データベースを構築し常時アクセスできる、もしくは一首一首のみずからの歌を〈全歌集〉的枠組みでたえず詠み/読み直していく、そういったデジタル感性のさきがけとしてこの歌集は出版されていたのではないかということなのだ。
この歌集の出版された2001年はメディア史においては、インターネットがとりざたされることもなくなるほどに〈あたりまえ〉のものとして普及されていた時代として表現されることになる。引用してみよう。
2000年代に入ると、インターネットやケータイの普及状況を問うことがあまり話題にならなくなってきた。インターネットは2000年代に入って急速に普及したが、世帯利用と個人利用、あるいは私的利用と仕事での利用などの区分がだんだんとあいまいになると同時に、PCだけでなくケータイやテレビなどさまざまな機器からもアクセスできるようになり、普及率にあまり意味がなくなってきたのである。
水越伸『21世紀メディア論』
つまりこのとき誰もが〈意識〉することなく、無意識に浸透していくデジタル・メディアの領域でポケットに〈デジタル・ビスケット〉を入れつつありはじめたということができるようにおもう。
歌集としての『デジタル・ビスケット』は、「デジタル」と「ビスケット」という、だれもがアクセスでき(デジタル)、なおかつだれもがそれを享受できる(ビスケット)というふたつの意味を読みとることがいまあらためてふりかえったときにできるのではないか。そしてその『デジタル・ビスケット』という歌集のマテリアルな表象は実はデジタルな感性の基礎が整ったことを告げるものだったのではないかとおもうのだ。
『デジタル・ビスケット』は、すでにアナログの紙面よりもネットで短歌を眼にすることの方が多くなっている現今の状況において、〈通史=歴史〉のどこにもあえて身をおかないことを選択した〈全歌集〉として、〈歌集〉の所在を、〈歌集〉のありかたをいまも問い直しつづけているようにもおもうのだ。
あ、http://www.jitsuzonwo.nejimagete.koiga.kokoni.hishimeku.com 荻原裕幸
熟ヾ(つくづく)とそのさびしさを辿りきて全歌集そろそろ死に近きころ 永田和宏
この歌からわかるのは、歌人にとって「全歌集」とはある意味、「死に近き」〈晩年〉の表象でもあるということである(ちなみに「全歌集」を流れる〈時間〉に着目した永田和宏さんのエッセイに「全歌集の〈時間〉」『新樹滴滴』がある。高安国世さんの「全歌集」について述べたものではあるが、今回のわたしの文章はこの永田さんのエッセイに着想を得ている)。
このときにぱっと思い浮かべたのが、荻原裕幸さんの歌集『デジタル・ビスケット』である。この『デジタル・ビスケット』がなによりも歌集として特筆されるべきはそれが歌人の〈晩年〉の表象として出版されたわけではなく、「短歌活動の二十年あまりの流れが一望できる」「思いきった企画」としての「全歌集」(全既刊歌集)として出版されたことである。実際「あとがき」において荻原さんは「歌のわかれを告げる予定はないので、遠からず裏切るであろう『全』の一文字を遠慮して、別のタイトル(『デジタル・ビスケット』)を付けた」と記している。つまり、この〈全歌集〉は〈全歌集〉としてあるわけではなく、途上の裏切られる〈全〉として、つまりそれまでの通時的な縦軸としての「全歌集」ではなく、むしろその時点における共時的な横軸としての「全歌集」として機能しているのである。通時性ではなく、共時性として存在する「全」歌集。出版されたのは、2001年のことだ。
この荻原裕幸さんの試みた「全歌集」とはさきほどの永田さんの歌の「全歌集」とは異なる感性のもとに築かれた「全歌集」ではなかったかというのが今回の私の文章の趣旨である。つまり、このとき、はじめて(そういうことばがあるならば)〈歌集史〉において、個々人の個人史=歴史的統辞機能を有する「全歌集」というメディアに対する感性が、〈デジタル・メディア〉の文脈においてデータベース的範列機能を有する「全歌集」へとシフトしたのではないかとおもうのだ。共時的な、次々と歌自体がリンクし、相互参照しあうようなデータベース的全歌集として。
つまりネットという巨大なデーターベースの保有庫をだれもがポータブルに、それこそビスケットのようにポケットにいれられる時代にあっては想像することはたやすくなったのだけれど、そういったいつでも・そこでも〈全歌集〉的単位で表現をかんがえる、もしくは個人個人が全歌集的データベースを構築し常時アクセスできる、もしくは一首一首のみずからの歌を〈全歌集〉的枠組みでたえず詠み/読み直していく、そういったデジタル感性のさきがけとしてこの歌集は出版されていたのではないかということなのだ。
この歌集の出版された2001年はメディア史においては、インターネットがとりざたされることもなくなるほどに〈あたりまえ〉のものとして普及されていた時代として表現されることになる。引用してみよう。
2000年代に入ると、インターネットやケータイの普及状況を問うことがあまり話題にならなくなってきた。インターネットは2000年代に入って急速に普及したが、世帯利用と個人利用、あるいは私的利用と仕事での利用などの区分がだんだんとあいまいになると同時に、PCだけでなくケータイやテレビなどさまざまな機器からもアクセスできるようになり、普及率にあまり意味がなくなってきたのである。
水越伸『21世紀メディア論』
つまりこのとき誰もが〈意識〉することなく、無意識に浸透していくデジタル・メディアの領域でポケットに〈デジタル・ビスケット〉を入れつつありはじめたということができるようにおもう。
歌集としての『デジタル・ビスケット』は、「デジタル」と「ビスケット」という、だれもがアクセスでき(デジタル)、なおかつだれもがそれを享受できる(ビスケット)というふたつの意味を読みとることがいまあらためてふりかえったときにできるのではないか。そしてその『デジタル・ビスケット』という歌集のマテリアルな表象は実はデジタルな感性の基礎が整ったことを告げるものだったのではないかとおもうのだ。
『デジタル・ビスケット』は、すでにアナログの紙面よりもネットで短歌を眼にすることの方が多くなっている現今の状況において、〈通史=歴史〉のどこにもあえて身をおかないことを選択した〈全歌集〉として、〈歌集〉の所在を、〈歌集〉のありかたをいまも問い直しつづけているようにもおもうのだ。
あ、http://www.jitsuzonwo.nejimagete.koiga.kokoni.hishimeku.com 荻原裕幸
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短歌感想