【感想】天の川ここには何もなかりけり 冨田拓也
- 2014/07/26
- 00:28
天の川ここには何もなかりけり 冨田拓也
【なんにもない旅、なんにもある旅】
この俳句をはじめてみたときすぐに頭に浮かんだうたがあったんです。
それが永井祐さんのつぎのうたです。
ふつうよりおいしかったしおしゃべりも上手くいったしコンクリを撮る 永井祐
で、冨田さんの句と永井さんの歌にはじつは奇妙な類似があるのでないかというのがわたしのかんがえです。
まず、冨田さんの句なんですが、「天の川」という記号としては〈リアル充実〉している記号表現に「何もなかりけり」と〈空疎〉を提示しています。しかも「けり」という切れ字において、語り手の〈詠嘆=気づき〉が発動し、「な、なんもないじゃんか、ここ……」という感じなのではないかと思います。
で、これは「天の川」という充実した、ジューシーな記号だからこそなせるドラマなのではないかとおもうんですよね。いままでさんざん記号の充填をされてきた天の川がすっかすかであったこと。しかも、「ここ」という指示代名詞からわかるようにふしぎなことなんですがどうも語り手は「天の川」にいて「な、なんもないよ」と〈実況〉している感じがするのです。〈実況的写生句〉のようにもおもうんですね。〈なにかあるはずべきのところを・写生的にみることによって・なにもないことをぎゃくにみいだしている〉。そうしたつきぬけた銀河スケールでお送りしている〈写生〉句なのではないかと。
で、永井さんの歌はこのちょうど逆をいっているのではないかとおもうのです。「ふつうよりおいしかったしおしゃべりも上手くいった」語り手はなぜか結句において「コンクリを撮」っています。しかし実はこの「コンクリ」こそが、この語り手にとっては〈天の川〉たる存在だったのではないかとおもうんですね。つまりいまこの語り手は記号充填できるフルパワーを得ている。きみとの(おそらくは)デートがうまくいって記号をリアル充実させるちからをもっている。だから、この語り手にとっては「コンクリ」でさえ、「撮る」べき対象になっている。
これらふたつの短詩型、〈本来はジューシーな記号だが、じつはすっかすかであった〉「天の川」の句と、〈本来はすっかすかな記号だが、いまはジューシーである」〉「コンクリート」のうた。
ふたつに共通しているのはおそらく〈記号の底〉を見据える〈視線〉なのではないかとおもうのです。とくに永井さんの歌の語り手は「撮」っているところに注意しなければなりません。メディアを媒介した視線はプラスにも反転しやすいですが、それは容易にマイナスにも反転しやすいからです。
この〈記号の底〉をさぐる作業が、どういうわけかわたしにはいま現在、リアリティをもっているようなきがするのです。
ググればなんでもでてくる記号過多の時代において、ぎゃくに記号を脱臼させ、空無化させ、記号の底をさらう視線。
それがアクチュアルな現在形の〈写生〉であるようなきも、なんだか、しているのです。
何時よりか肺を彷徨ふ螢かな 冨田拓也
【なんにもない旅、なんにもある旅】
この俳句をはじめてみたときすぐに頭に浮かんだうたがあったんです。
それが永井祐さんのつぎのうたです。
ふつうよりおいしかったしおしゃべりも上手くいったしコンクリを撮る 永井祐
で、冨田さんの句と永井さんの歌にはじつは奇妙な類似があるのでないかというのがわたしのかんがえです。
まず、冨田さんの句なんですが、「天の川」という記号としては〈リアル充実〉している記号表現に「何もなかりけり」と〈空疎〉を提示しています。しかも「けり」という切れ字において、語り手の〈詠嘆=気づき〉が発動し、「な、なんもないじゃんか、ここ……」という感じなのではないかと思います。
で、これは「天の川」という充実した、ジューシーな記号だからこそなせるドラマなのではないかとおもうんですよね。いままでさんざん記号の充填をされてきた天の川がすっかすかであったこと。しかも、「ここ」という指示代名詞からわかるようにふしぎなことなんですがどうも語り手は「天の川」にいて「な、なんもないよ」と〈実況〉している感じがするのです。〈実況的写生句〉のようにもおもうんですね。〈なにかあるはずべきのところを・写生的にみることによって・なにもないことをぎゃくにみいだしている〉。そうしたつきぬけた銀河スケールでお送りしている〈写生〉句なのではないかと。
で、永井さんの歌はこのちょうど逆をいっているのではないかとおもうのです。「ふつうよりおいしかったしおしゃべりも上手くいった」語り手はなぜか結句において「コンクリを撮」っています。しかし実はこの「コンクリ」こそが、この語り手にとっては〈天の川〉たる存在だったのではないかとおもうんですね。つまりいまこの語り手は記号充填できるフルパワーを得ている。きみとの(おそらくは)デートがうまくいって記号をリアル充実させるちからをもっている。だから、この語り手にとっては「コンクリ」でさえ、「撮る」べき対象になっている。
これらふたつの短詩型、〈本来はジューシーな記号だが、じつはすっかすかであった〉「天の川」の句と、〈本来はすっかすかな記号だが、いまはジューシーである」〉「コンクリート」のうた。
ふたつに共通しているのはおそらく〈記号の底〉を見据える〈視線〉なのではないかとおもうのです。とくに永井さんの歌の語り手は「撮」っているところに注意しなければなりません。メディアを媒介した視線はプラスにも反転しやすいですが、それは容易にマイナスにも反転しやすいからです。
この〈記号の底〉をさぐる作業が、どういうわけかわたしにはいま現在、リアリティをもっているようなきがするのです。
ググればなんでもでてくる記号過多の時代において、ぎゃくに記号を脱臼させ、空無化させ、記号の底をさらう視線。
それがアクチュアルな現在形の〈写生〉であるようなきも、なんだか、しているのです。
何時よりか肺を彷徨ふ螢かな 冨田拓也
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