【感想】今走つてゐること夕立来さうなこと 上田信治
- 2014/07/26
- 13:11
今走つてゐること夕立来さうなこと 上田信治
【走れメロス(以外も)】
さいきん、ジョギングをしながら短詩型文学と〈走る〉ことについてかんがえていて、実は短詩型文学について〈走る〉という行為は詠まれることはあっても語る主体としての自身が〈走る〉ことは回避されているのではないか、もっといえば、ひとが走るのを〈み〉ているのは好きなのだけれど、いま語っているじぶんが〈走り〉ながら語るのはいやなんではないか、とおもうのです。
走ることを詠んだ走らない主体としての短詩型文学をすこし例として以下にあげてみます。
【走ることを詠んだ俳句】
走るの嫌なの歩くのはもっと嫌。 巻民代
(走るのをいやがる句)
シルバー人材センター総動員ぞ野火走る 周藤迪之相
(走っているのをみている句)
走れ変態あしたがないと思ふなら 西原天気
(走れと思いをとばす句)
初夢の中をどんなに走つたやら 飯島晴子
(夢の中ではしっているじぶんをみている句)
【走ることを詠んだ短歌】
逃れ来し我の前、なおも走りゆく少女靴ぬげて白き足がふむ日本 佐佐木幸綱
(走る少女をみている歌)
雨の日にぼくとピアノを乗せ走れ イルカのごとき電気機関車 正岡豊
(乗せてもらって走ろうとする歌)
いま村をだれも走っていないことそれだけのおそろしく確かな 平井弘
(走ってないことを主題化する歌)
で、これはもしかしたら俳句や短歌といったジャンルの語る〈視線〉のありようとも関係しているのかもしれないとおもったりします。〈み〉ようとしているときに〈み〉ようとしているひとは〈走らない〉からです。
つまり、〈み〉ることのシステムとしての短詩型は〈み〉ている主体が〈走る〉こととは相性がわるいのではないか。
ところが上田さんの俳句は「今」と語り手がその始発に語りはじめたように、〈走っている〉わけです。語り手は走りながら語っている。走りながら・走っていることを語っている。そしてこのどう定型として成立させればいいのかを読み手に感じさせる非定型のありかたは読み手も巻き込んで走らせているようにさえおもうのです。走っているときを思い浮かべてみるとわかるんですが、走っているときのリズムは、ブレていく、変則していくリズムなはずです。つまりこの句の定型のありかたは各人が各人で読む、各人の〈走る〉速度で定型のありかたが変わってくるようなブレとしての定型のありかたなのではないかと。しかも「夕立」が来そうでもあるのであまり時間はありません。ということは、さらに速度をあげて走らなければならないわけです。潜在的「夕立」があることによってこの句は半永久に走り続ける句。どこまでいっても潜在的に夕立でしかないため、どこまでも、さらに速度をあげて走っていかなければならない句となっています。給水所としてのピリオドも切れ字もなく。
わたしはこの俳句はもしかすると短詩型文学における〈走ることの回避〉を回避しないであえて「今」から走りつつ語りはじめたところにおおきな(走ることの)意味があるのではないかとおもうのです。もっといえば、短詩型文学における走る/走らないことの差異の体系として〈走っ〉ているのではないかとおもうのです。
さいごに、おそらくは語り手が〈走り〉ながら語っているであろう短歌と川柳を紹介しておわりにしたいとおもいます。走りながらこれを書いていたので、わたしもふたたび、走ることにもどりつつ。
虹が出ていると大きな声で言いみんなで走る勤務時間後 山川藍
シャンデリアになっているようで何度もじぶんを見おろしながら走る 雪舟えま
走りながら後ろへ捨ててゆく景色 広瀬ちえみ
すべての隔たりを探検すること、ただし、同じ線の上で。高速で駆け抜けること、同じ場所に留まるために。
ドゥルーズ『意味の論理学』
【走れメロス(以外も)】
さいきん、ジョギングをしながら短詩型文学と〈走る〉ことについてかんがえていて、実は短詩型文学について〈走る〉という行為は詠まれることはあっても語る主体としての自身が〈走る〉ことは回避されているのではないか、もっといえば、ひとが走るのを〈み〉ているのは好きなのだけれど、いま語っているじぶんが〈走り〉ながら語るのはいやなんではないか、とおもうのです。
走ることを詠んだ走らない主体としての短詩型文学をすこし例として以下にあげてみます。
【走ることを詠んだ俳句】
走るの嫌なの歩くのはもっと嫌。 巻民代
(走るのをいやがる句)
シルバー人材センター総動員ぞ野火走る 周藤迪之相
(走っているのをみている句)
走れ変態あしたがないと思ふなら 西原天気
(走れと思いをとばす句)
初夢の中をどんなに走つたやら 飯島晴子
(夢の中ではしっているじぶんをみている句)
【走ることを詠んだ短歌】
逃れ来し我の前、なおも走りゆく少女靴ぬげて白き足がふむ日本 佐佐木幸綱
(走る少女をみている歌)
雨の日にぼくとピアノを乗せ走れ イルカのごとき電気機関車 正岡豊
(乗せてもらって走ろうとする歌)
いま村をだれも走っていないことそれだけのおそろしく確かな 平井弘
(走ってないことを主題化する歌)
で、これはもしかしたら俳句や短歌といったジャンルの語る〈視線〉のありようとも関係しているのかもしれないとおもったりします。〈み〉ようとしているときに〈み〉ようとしているひとは〈走らない〉からです。
つまり、〈み〉ることのシステムとしての短詩型は〈み〉ている主体が〈走る〉こととは相性がわるいのではないか。
ところが上田さんの俳句は「今」と語り手がその始発に語りはじめたように、〈走っている〉わけです。語り手は走りながら語っている。走りながら・走っていることを語っている。そしてこのどう定型として成立させればいいのかを読み手に感じさせる非定型のありかたは読み手も巻き込んで走らせているようにさえおもうのです。走っているときを思い浮かべてみるとわかるんですが、走っているときのリズムは、ブレていく、変則していくリズムなはずです。つまりこの句の定型のありかたは各人が各人で読む、各人の〈走る〉速度で定型のありかたが変わってくるようなブレとしての定型のありかたなのではないかと。しかも「夕立」が来そうでもあるのであまり時間はありません。ということは、さらに速度をあげて走らなければならないわけです。潜在的「夕立」があることによってこの句は半永久に走り続ける句。どこまでいっても潜在的に夕立でしかないため、どこまでも、さらに速度をあげて走っていかなければならない句となっています。給水所としてのピリオドも切れ字もなく。
わたしはこの俳句はもしかすると短詩型文学における〈走ることの回避〉を回避しないであえて「今」から走りつつ語りはじめたところにおおきな(走ることの)意味があるのではないかとおもうのです。もっといえば、短詩型文学における走る/走らないことの差異の体系として〈走っ〉ているのではないかとおもうのです。
さいごに、おそらくは語り手が〈走り〉ながら語っているであろう短歌と川柳を紹介しておわりにしたいとおもいます。走りながらこれを書いていたので、わたしもふたたび、走ることにもどりつつ。
虹が出ていると大きな声で言いみんなで走る勤務時間後 山川藍
シャンデリアになっているようで何度もじぶんを見おろしながら走る 雪舟えま
走りながら後ろへ捨ててゆく景色 広瀬ちえみ
すべての隔たりを探検すること、ただし、同じ線の上で。高速で駆け抜けること、同じ場所に留まるために。
ドゥルーズ『意味の論理学』
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