【感想】カーテンをくぐってやわらかくなった風 図書館が深海のよう 田中ましろ
- 2014/04/07
- 22:55
【図書館でするかたすみさがし-きょうからできるシーラカンス入門-】
前掲記事で図書館のはなしを書いたんですが、短歌において図書館はどううたわれているのかということをかんがえてみるために田中ましろさんの歌集『かたすみさがし』から図書館にかんする短歌をご紹介したいとおもいます。
カーテンをくぐってやわらかくなった風 図書館が深海のよう
群れるときわたしは消える図書館の深くに史書の眠るみたいに
探しもの見つけたように秋のあさ 書架の隙間に手を差し入れる
田中さんの図書館短歌はまるで図書館が図書館として機能していないところにその美しさがあるんじゃないかとおもうんです(書架は自宅の本棚かもしれないので少しずれるかもしれませんが、それは図書館の書架であってもいいのだし、いちおう図書(館)短歌ということであげてみました)。
たとえば、この歌集における「図書館」のイメージはなによりも〈深さ〉とし表象されているようにおもうんです。つまり、本にアクセスする場所ではなくて、別の空間、ある深度をもったふだんはあじわえない圧力をもった〈場所にアクセスする場所〉としての図書館がうたわれているようにおもいます。
それはたとえば「深海」の〈深さ〉、「深く」眠る場所としての〈深さ〉、「手を差し入れる」ことができるくらいのやはり〈深さ〉です。
田中さんのこの歌集のタイトルは、『かたすみさがし』というんですが、「かたすみ」とはかんがえてみると、「中央部から離れた目立たないところ」という意味です。つまり、意味上の遠近感覚として、それは〈深さ〉をもっているので、「さが」さなければみえないような〈場所〉こそが「かたすみ」ではないかとわたしはおもうのです。
だから田中さんのひとつのモチーフとして、ふだんなにげなく特権化されている場所をアクセスのしかたによって「かたすみ」として〈深さ〉として短歌によって主題化していくというプラクティスがあるようにおもいます。この短歌は、そういった意味で実践的であるとおもいます。なぜなら、「かたすみさがし」というように、かたすみをさがす方法が描かれているからです。
終電でシーラカンスの夢を見て降り立つ わたしひとりの深海
「わたしひとりの深海」とあるように、それはめいめいでおのおのの必然性をもって、だれかではないこのわたしの〈場所〉=〈かたすみ〉としてみつけなければならないものです。しかも「終電」というように、それはどこかの異世界ではなく、日常と地続きの世界のなかで、アクセスすることが大事なのだとおもいます。日常の地続きであっても、「シーラカンス」のような時間の深度をもった「夢」をかいして、「深海」へアクセスすること。わたしはそのようなふかく、時空をこえたひろい場所へとアクセスできるのが、この歌集のひとつの「かたすみさがし」なのではないかとおもいます。
前掲記事で図書館のはなしを書いたんですが、短歌において図書館はどううたわれているのかということをかんがえてみるために田中ましろさんの歌集『かたすみさがし』から図書館にかんする短歌をご紹介したいとおもいます。
カーテンをくぐってやわらかくなった風 図書館が深海のよう
群れるときわたしは消える図書館の深くに史書の眠るみたいに
探しもの見つけたように秋のあさ 書架の隙間に手を差し入れる
田中さんの図書館短歌はまるで図書館が図書館として機能していないところにその美しさがあるんじゃないかとおもうんです(書架は自宅の本棚かもしれないので少しずれるかもしれませんが、それは図書館の書架であってもいいのだし、いちおう図書(館)短歌ということであげてみました)。
たとえば、この歌集における「図書館」のイメージはなによりも〈深さ〉とし表象されているようにおもうんです。つまり、本にアクセスする場所ではなくて、別の空間、ある深度をもったふだんはあじわえない圧力をもった〈場所にアクセスする場所〉としての図書館がうたわれているようにおもいます。
それはたとえば「深海」の〈深さ〉、「深く」眠る場所としての〈深さ〉、「手を差し入れる」ことができるくらいのやはり〈深さ〉です。
田中さんのこの歌集のタイトルは、『かたすみさがし』というんですが、「かたすみ」とはかんがえてみると、「中央部から離れた目立たないところ」という意味です。つまり、意味上の遠近感覚として、それは〈深さ〉をもっているので、「さが」さなければみえないような〈場所〉こそが「かたすみ」ではないかとわたしはおもうのです。
だから田中さんのひとつのモチーフとして、ふだんなにげなく特権化されている場所をアクセスのしかたによって「かたすみ」として〈深さ〉として短歌によって主題化していくというプラクティスがあるようにおもいます。この短歌は、そういった意味で実践的であるとおもいます。なぜなら、「かたすみさがし」というように、かたすみをさがす方法が描かれているからです。
終電でシーラカンスの夢を見て降り立つ わたしひとりの深海
「わたしひとりの深海」とあるように、それはめいめいでおのおのの必然性をもって、だれかではないこのわたしの〈場所〉=〈かたすみ〉としてみつけなければならないものです。しかも「終電」というように、それはどこかの異世界ではなく、日常と地続きの世界のなかで、アクセスすることが大事なのだとおもいます。日常の地続きであっても、「シーラカンス」のような時間の深度をもった「夢」をかいして、「深海」へアクセスすること。わたしはそのようなふかく、時空をこえたひろい場所へとアクセスできるのが、この歌集のひとつの「かたすみさがし」なのではないかとおもいます。
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