【感想】目隠しの中も眼つむる西瓜割 中原道夫
- 2014/07/28
- 01:19
目隠しの中も眼つむる西瓜割 中原道夫
【闇のなか、詠み手と読み手でするハンカチ落とし】
上田信治さんの俳句で〈走る〉俳句についてかんがえてみたので、こんどは〈眼をつむる〉俳句についてかんがえてみたい。
短詩型において、走る主体の俳句も珍しいとはおもうけれど、眼をつむる主体の俳句もめずらしいのではないか。
たとえば飯田龍太さんがこんなことをいっている。
私は、写生とは、見つめて目を離さないことじゃないかと最近強く感じている。見つめて、心のなかに実物では感じない別途の実感が湧くまで目を離さない。これが写生の手法のように思えてきた。 飯田龍太『俳句入門三十三講』
〈写生〉について述べられたものではあるけれど、ここで肝心なのは、おそらく、俳句にあっては〈きちんとみること〉が特権化されているのではないかということである。それは〈眼をつむる〉ことのタブーとしてあらわれているのではないか。
中原さんの俳句は、二重の〈眼をつむる〉ことのシャットダウンがある。
ひとつめは、「目隠し」として。ふたつめは、「眼つむる」こととして。
わたしがここで注目してみたいのは、ただ「目隠し」をしているのでも、ただ「眼をつむ」っているわけでもない、「目隠し」と「眼つむ」りの二重化によってはじめてできる視線の交錯状況である。
語り手は、眼をつむっている。なぜなら、目隠しの外からはだれも眼をつむっているかいなかはわからないからだ。ところがそこにこの句のミソがある。
語り手が眼をつむっていることは誰もしらない。目隠しをしているから。でも語り手も眼をつむっていることによって誰がまわりにいて誰が語り手をみているかはわからない。
つまりここで描き出されてしまっているのは、ただたんにみえないことではなくて、絶対的な視線の零度である。
〈みる〉ことも〈みられる〉こともすべて(の視線)が無化されたこの状況のなかで、「西瓜割」という下五だけが浮かんでいる。しかし「西瓜割」という下五も、ことばが浮かんでいるだけで、視線が零度の風景では存在すらしていないのではないかという恐怖感がある。視線のないなかで発話だけがその存在を担保しているぶきみな手触りである。
しかし実はここにはどうしようがいかんともしがたい絶対的な視線がひとつだけ、ある。それは、読み手の視線だ。語り手が眼をつむる(すべての視線が排除された)闇の空間で、この句を読んでいる読み手だけが〈視線〉を重ねてくる。語り手さえも眼をつむっているというのに。
だとしたら、俳句にとって、〈視線〉とはなんなのだろうか。読み手だけがいやおうなく〈暴力的〉に介入してくる読み手にゆるされた特権的な〈視線〉とはなんだろう。わたしたち読み手の〈視線〉はどのようにいつも担保されているのか。
そういった視線の零度の風景ではじめてうきぼりになる読み手の〈視線〉を問題化してしまっている句のようにもわたしはおもうのだ。
西瓜はまだ割れていない。割れないかもしれない。割ったとしてもだれもみていないかもしれない。読み手以外は。
だとしたら、いついかなるときでも超越的な視線を有する読み手とはなんなのか。
語り手が〈眼をつむる〉ことはあっても読み手が〈眼をつむる〉ことはないのか。
この句のテーマをわたしなりにまとめてみるとこんなふうになる。すなわち、
わたしたちは〈眼をつむっ〉てたとえ俳句を詠むことができたとしても、わたしたちは〈眼をつむっ〉たまま俳句を読むことができるのか。
ふっと、闇。
飛込の途中たましひ遅れけり 中原道夫
【闇のなか、詠み手と読み手でするハンカチ落とし】
上田信治さんの俳句で〈走る〉俳句についてかんがえてみたので、こんどは〈眼をつむる〉俳句についてかんがえてみたい。
短詩型において、走る主体の俳句も珍しいとはおもうけれど、眼をつむる主体の俳句もめずらしいのではないか。
たとえば飯田龍太さんがこんなことをいっている。
私は、写生とは、見つめて目を離さないことじゃないかと最近強く感じている。見つめて、心のなかに実物では感じない別途の実感が湧くまで目を離さない。これが写生の手法のように思えてきた。 飯田龍太『俳句入門三十三講』
〈写生〉について述べられたものではあるけれど、ここで肝心なのは、おそらく、俳句にあっては〈きちんとみること〉が特権化されているのではないかということである。それは〈眼をつむる〉ことのタブーとしてあらわれているのではないか。
中原さんの俳句は、二重の〈眼をつむる〉ことのシャットダウンがある。
ひとつめは、「目隠し」として。ふたつめは、「眼つむる」こととして。
わたしがここで注目してみたいのは、ただ「目隠し」をしているのでも、ただ「眼をつむ」っているわけでもない、「目隠し」と「眼つむ」りの二重化によってはじめてできる視線の交錯状況である。
語り手は、眼をつむっている。なぜなら、目隠しの外からはだれも眼をつむっているかいなかはわからないからだ。ところがそこにこの句のミソがある。
語り手が眼をつむっていることは誰もしらない。目隠しをしているから。でも語り手も眼をつむっていることによって誰がまわりにいて誰が語り手をみているかはわからない。
つまりここで描き出されてしまっているのは、ただたんにみえないことではなくて、絶対的な視線の零度である。
〈みる〉ことも〈みられる〉こともすべて(の視線)が無化されたこの状況のなかで、「西瓜割」という下五だけが浮かんでいる。しかし「西瓜割」という下五も、ことばが浮かんでいるだけで、視線が零度の風景では存在すらしていないのではないかという恐怖感がある。視線のないなかで発話だけがその存在を担保しているぶきみな手触りである。
しかし実はここにはどうしようがいかんともしがたい絶対的な視線がひとつだけ、ある。それは、読み手の視線だ。語り手が眼をつむる(すべての視線が排除された)闇の空間で、この句を読んでいる読み手だけが〈視線〉を重ねてくる。語り手さえも眼をつむっているというのに。
だとしたら、俳句にとって、〈視線〉とはなんなのだろうか。読み手だけがいやおうなく〈暴力的〉に介入してくる読み手にゆるされた特権的な〈視線〉とはなんだろう。わたしたち読み手の〈視線〉はどのようにいつも担保されているのか。
そういった視線の零度の風景ではじめてうきぼりになる読み手の〈視線〉を問題化してしまっている句のようにもわたしはおもうのだ。
西瓜はまだ割れていない。割れないかもしれない。割ったとしてもだれもみていないかもしれない。読み手以外は。
だとしたら、いついかなるときでも超越的な視線を有する読み手とはなんなのか。
語り手が〈眼をつむる〉ことはあっても読み手が〈眼をつむる〉ことはないのか。
この句のテーマをわたしなりにまとめてみるとこんなふうになる。すなわち、
わたしたちは〈眼をつむっ〉てたとえ俳句を詠むことができたとしても、わたしたちは〈眼をつむっ〉たまま俳句を読むことができるのか。
ふっと、闇。
飛込の途中たましひ遅れけり 中原道夫
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