【感想】数ページの哲学あした来るソファー 西原天気
- 2014/07/30
- 00:54
数ページの哲学あした来るソファー 西原天気
【招かれざる客でも、帰る。招いたもののソファーは、帰らない】
さいきんこの句について考えていて、わたしがはじめてこの句をみたときの感想は、ぱっとみた瞬間に、無意識に、あ、おもしろいなあ、とおもったんですが、その無意識の所在をじぶんなりにかんがえてみたいとおもいます。
まずおもったのは、この句がもっている〈シーン〉。「あした来るソファー」としてこの句の〈シーン〉が設定されているところにあるのかな、ということです。
さいきんわたしもソファーを買ってみてなんだかそのときのことを思い出していたんですが、ソファーってでかいんですよ。部屋にとって異物なんです。だからこっちが準備しなきゃならないものがソファーなんだとおもうんですよ。ソファーってふいの来客なんかよりもよっぽど他者なんです。なぜなら、ふいうちだろうがなんだろうが来客はいつかは帰りますが、ソファーはきたが最後、帰らず、そのスペースにずっといすわるのです。つまり、部屋という領土を侵食する、しかも家具ですから、こんないいかたがゆるされるならば、ソフトな〈植民地=従属地域〉にしてしまうのがソファーです(ただあえていうならばソファーは〈西欧〉の表象としてコロニアルな意味をその歴史の深層においては文化記号的にもっているという考え方もできるかもしれません)。
ソファーがあることによってわたしの生活感覚は変わるでしょうし、さまざまなことが便意化される反面、不可能なこともでてくる。そうした緊張感としてのシーンをまずこの句はかかえているのではないか。それがまずわたしの感じたおそらく無意識のおもしろさです。
ただこの句にはもうひとつ「数ページの哲学」があります。このフレーズがあることによってソファーとのダイナミズムを形成しているとおもうんですが、「数ページの哲学」をわたしがあえてことばとして展開してみるならば、それは〈取り組みと挫折〉です。哲学は哲学でも数ページと限定されていることが大事なようなきがするんですね。それは体系だった哲学でも、ひとつのタームをえんえんと追究していくような哲学でもなくて、「数ページの哲学」です。だからふっと、かするような哲学です。それでも語り手が哲学と関わろうとしていることがここでは大事なのではないかとおもいます。哲学というディシプリンにすこしでも関わろうとしていること。しかしそれが数ページといった限定された感覚でしかないこと。それが〈取り組みと挫折〉です。
こうした〈取り組みと挫折〉の枠組みのなかに「あした来るソファー」という緊張感が取り合わせられること。しかし、そのあした来るソファーの生活感覚の変化によってこの〈取り組みと挫折〉の形式になんらかの変数がもたらされるかもしれないということ。
こんなふうな、「数ページの哲学」=〈わたしの枠組み〉と「あした来るソファー」=〈外部からの枠組み〉がせりあい、なんらかの変調の〈期待〉をかもしだしているのがこの句のわたしが感じ取ったおもしろさなのではないかとおもいます。
ちなみに西原さん自身は『句集 けむり』の「あとがき」でこの句についてこんなふうに述べられています。
根岸での“句会デビュー”でつくった三句のうちの一句が、この句集に収めた〈数ページの哲学あした来るソファー〉という句。初心者らしく、みごとに季語を欠いている。なぜソファーなんてものが頭に浮かんだのかというと、実際、その次の日に、注文していたソファーが届く予定だったから。そのソファーはいまも使っている。 西原天気「あとがき」『けむり』
ちなみにわたしはこの句をかんがえながら、家具っていうのはひょっとすると〈わたし〉の文化侵食として訪れるかもしれない、というようなことを書きましたが、そういった文化侵食の観点から次の寺山修司の短歌をかんがえなおしてみるのもありかもしれません。
つまり、きみの歌をわたしの家具にしてしまうような、〈わたし〉から〈きみ〉へ〈家具〉と〈ことば〉を介した文化侵食=植民地化の実践として。そういう、ことばの、ソフトで、根深い、〈権力〉的な実践の一例として。
きみが歌うクロッカスの歌も新しき家具の一つに数えむとする 寺山修司
【招かれざる客でも、帰る。招いたもののソファーは、帰らない】
さいきんこの句について考えていて、わたしがはじめてこの句をみたときの感想は、ぱっとみた瞬間に、無意識に、あ、おもしろいなあ、とおもったんですが、その無意識の所在をじぶんなりにかんがえてみたいとおもいます。
まずおもったのは、この句がもっている〈シーン〉。「あした来るソファー」としてこの句の〈シーン〉が設定されているところにあるのかな、ということです。
さいきんわたしもソファーを買ってみてなんだかそのときのことを思い出していたんですが、ソファーってでかいんですよ。部屋にとって異物なんです。だからこっちが準備しなきゃならないものがソファーなんだとおもうんですよ。ソファーってふいの来客なんかよりもよっぽど他者なんです。なぜなら、ふいうちだろうがなんだろうが来客はいつかは帰りますが、ソファーはきたが最後、帰らず、そのスペースにずっといすわるのです。つまり、部屋という領土を侵食する、しかも家具ですから、こんないいかたがゆるされるならば、ソフトな〈植民地=従属地域〉にしてしまうのがソファーです(ただあえていうならばソファーは〈西欧〉の表象としてコロニアルな意味をその歴史の深層においては文化記号的にもっているという考え方もできるかもしれません)。
ソファーがあることによってわたしの生活感覚は変わるでしょうし、さまざまなことが便意化される反面、不可能なこともでてくる。そうした緊張感としてのシーンをまずこの句はかかえているのではないか。それがまずわたしの感じたおそらく無意識のおもしろさです。
ただこの句にはもうひとつ「数ページの哲学」があります。このフレーズがあることによってソファーとのダイナミズムを形成しているとおもうんですが、「数ページの哲学」をわたしがあえてことばとして展開してみるならば、それは〈取り組みと挫折〉です。哲学は哲学でも数ページと限定されていることが大事なようなきがするんですね。それは体系だった哲学でも、ひとつのタームをえんえんと追究していくような哲学でもなくて、「数ページの哲学」です。だからふっと、かするような哲学です。それでも語り手が哲学と関わろうとしていることがここでは大事なのではないかとおもいます。哲学というディシプリンにすこしでも関わろうとしていること。しかしそれが数ページといった限定された感覚でしかないこと。それが〈取り組みと挫折〉です。
こうした〈取り組みと挫折〉の枠組みのなかに「あした来るソファー」という緊張感が取り合わせられること。しかし、そのあした来るソファーの生活感覚の変化によってこの〈取り組みと挫折〉の形式になんらかの変数がもたらされるかもしれないということ。
こんなふうな、「数ページの哲学」=〈わたしの枠組み〉と「あした来るソファー」=〈外部からの枠組み〉がせりあい、なんらかの変調の〈期待〉をかもしだしているのがこの句のわたしが感じ取ったおもしろさなのではないかとおもいます。
ちなみに西原さん自身は『句集 けむり』の「あとがき」でこの句についてこんなふうに述べられています。
根岸での“句会デビュー”でつくった三句のうちの一句が、この句集に収めた〈数ページの哲学あした来るソファー〉という句。初心者らしく、みごとに季語を欠いている。なぜソファーなんてものが頭に浮かんだのかというと、実際、その次の日に、注文していたソファーが届く予定だったから。そのソファーはいまも使っている。 西原天気「あとがき」『けむり』
ちなみにわたしはこの句をかんがえながら、家具っていうのはひょっとすると〈わたし〉の文化侵食として訪れるかもしれない、というようなことを書きましたが、そういった文化侵食の観点から次の寺山修司の短歌をかんがえなおしてみるのもありかもしれません。
つまり、きみの歌をわたしの家具にしてしまうような、〈わたし〉から〈きみ〉へ〈家具〉と〈ことば〉を介した文化侵食=植民地化の実践として。そういう、ことばの、ソフトで、根深い、〈権力〉的な実践の一例として。
きみが歌うクロッカスの歌も新しき家具の一つに数えむとする 寺山修司
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